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「子供ができたら変わるよ」は本当か

「朝、どうしても起きられないんです」
大学1年のとき、私はバスで知らないおばさんに相談したことがある。
高校時代から部活の朝練をぶっちしまくって後輩にブログで悪口を書かれていた私は、大学に入ってから1限の語学の授業を何度も欠席して単位を落としかけていた。特にいやなことがあるというわけではなく、目覚ましが聞こえなかったり、体がなまりのように重かったり。そして夜になると元気にアルバイトをして帰る。自分自身どこかおかしいと思っていた。

その日は電車が人身事故か何かで遅れて、振り替え輸送のバスでおばさんと隣り合った。たぶん「いやぁ参りましたね」みたいな感じで会話がはじまり、私は旅の恥はかきすて感覚で「でも電車が遅れなくてもかくかくしかじかで・・・」とおばさんに相談したんだったと思う。おばさんは「あぁ、私も若いころはそうだったな」と言い、続けた。「子供ができたら変わるわよ」

言葉の意味をはかりかね、私はあいまいな相づちを打った。
子供を産むと自律神経が整いしゃきっと起きられるようになる、というような生理的変化ではないことは明らかだ。
子供のためには否が応でも動かなきゃいけなくなるし、子供をを庇護する立場になって、利他的な動機がうまれると、ギアが一段階あがる、という意味ではないかと私は思った。
毎朝5時半に起きて弁当をつくる母の姿が目に浮かんだ。母もまた、「独身のころはこんな生活考えれなかった」という趣旨のことをよく言っていた気がする。

「子供ができたら変わる」
この言葉を私は20代を通じて折りに触れ思い出した。
新卒で入社した会社で、「いつまでも学生気分でいるなよ」「こんなミスする新人はみたことない」と言われたとき。その後ADHDと診断された私は薬を飲んで必死に仕事にしがみついてきた。

あのおばさんの言葉を思い出すたびに思った。

「変わるために産んでみたい」

どれだけ頑張っても、何冊セルフコーチングの本を読んでも、服薬しても、自分の思う「しゃきっと起きる」状態にはなれない。「ポンコツな自分が限界値を突破するぐらいがんばれるようになれるなら、子供とやらを産んでみたい」と思った。

一方で同じぐらい強くこう思った。

「変われないから私は産めない」

万が一子供が産まれてもおばさんの言った効果が発動しなかったらどうすればよいのだろう。目覚ましが聞こえない私が赤ちゃんを産んで、泣き声で起きられなかったら?もし子供がサッカーを習いたがっても私は彼を練習に連れて行って上げられないだろうし、学校だってまにあうか怪しい。子供の忘れ物チェックもしてあげられない。変われない限り私は産めないし、いつまでもその準備ができるようすが見えない。

そうこうして30代に突入すると周りに子持ちが増え、別の意味の「子供産まれたら変わるよ~」を聞くようになった。子供がいると価値観が変わって、いない人生なんて考えられなくなるよ、という趣旨だ。
おばさんの「変わるよ」は私にとってなぞなぞのような言葉だったが、後者の「変わるよ」はある種の呪いだった。聞く度に叫びたい気分になった。
変わらなきゃ産めないし、産めないから変われないんだってば!


おばさんと話してから15年が経った。
私は変われないまま娘を産んだ。子供効果はどうだったのか。

結論からいえば、朝は起きてはきている。
娘がお腹が空いて泣いたら、3時だろうが4時だろうが一旦は起きてミルクをあげる。泣いていても聞こえないなんてことはない。(よかった!)。私にとって朝焼けは徹夜しないと見られないものだったが、いま一生分の朝焼けを目に焼き付けている気がする。

ただし、早起きになったかというと違う。
起きるのは娘の泣き声限定で、娘より早起きしようと思ってかけたアラームは相変わらず聞こえない。未明のミルクをあげたら10時まで寝る。朝ごはんもつくらないし、部屋着にヘアバンドのまま。復職したら9時までに娘を登園させないといけないのに、どうなるんだろう・・・ということで、早起き問題は先送りされている。

でも妊娠中から実感したことがある。子供がいると「優先順位が変わる」ということだ。

妊娠してから、「お腹の赤ちゃんのために、今は頑張らないことを頑張るんだよ」と周りに諭された。
最初は、「もう無理できなくなっちゃったんだ」とすごく焦った。それまで私のなかで、頑張る=限界まで無理をすることは美徳だった。「逃げてもいい」とか「命より大事な仕事はない」とかなんだかんだいっても、やっぱり無理をすることでしか伸びない能力があると思っていた。

妊娠してからの私は泣く泣く仕事のペースを落として、19時に帰って夜ごはんをつくった。体重管理のために週に2回泳ぎ、毎日3キロ歩いた。毎日郵便受けを見て、ゴミの日にゴミを出した。お掃除ロボと冷蔵庫を買い、掃除や作り置きのルーティンを最適化した。
赤ちゃんを迎えるために、身体と生活を整えることにしたのだ。それらは全て仕事に1分1秒でも多く時間を割くために後回しにしていたことだった。仕事が一人前にできない自分には「贅沢だ」と思っていたフシもある。
実際のところ、私は一時的にその生活を送ることができたことを心から楽しんでいた。早起きにはならなかったけど、朝起きた瞬間に足が鉛のように重くなっている現象はなくなった。頑張らないを頑張ることはとても心地がよかった。

おそらくこの先、私が仕事をしながら子育てしていて、どうしても朝起きられなくなってしまったら。私はまず拘束時間の短い部署への異動を願い出るだろう。それでもダメだったら、会社を辞めて、自宅でできる仕事を始めるかもしれない。
そしてそれを、完全な敗北とは思わないだろう。子供ができて変わったのはその価値観のような気がしている。

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