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「跳ね返りとトラウマ——そばにいるあなたも無傷ではない」(カミーユ・エマニュエル著、柏書房)

読了日: 2023/6/2

大きな事故、できごとに遭ったために起こる心的外傷後ストレス障害(PTSD)やトラウマを患うのはその出来事を経験した当事者本人であるが、当事者の近親者もさまざまな心身の異常を被ることがあり、著者はその経験者である。
彼女(著者)の経験を括る法的、医学的用語は現代になって定まりつつあるようだが、まだ途上で、本書内でその定義(再定義)も試みられている。

2017年1月7日、パリで起こった「シャルリ・エブド襲撃事件」(シャルリ・エブドとは、週刊誌の名称)とよばれるテロ事件で当編集者に勤める著者の配偶者(夫)が被害者となった。幸運にも外傷は負わなかったが同僚などの多くが犠牲者となった。そのため彼はPTSDにあたるような障害を抱えてしまう。彼をサポートするべく努める著者自身も事件当時に現場に居合わせなかったものの、知人の多くを失ったことは同じ事象であり、心的障害を被る。
一般には、直接被害者ではないため、補償やその認定の対象とならないが、結果的には医師、弁護士などのサポートを経てFGTI(テロおよび一般犯罪被害の被害者補償基金)に認定される。

この認定にあたるのが、タイトルとなっている「跳ね返り」被害者としてというものだ。間接被害者、二次的被害者という表現も近しいが、間接という表現は直接よりも弱いというニュアンスにもとられるなどとして「跳ね返り」被害者という表現がいまのところ適当らしい。
跳ね返り(ricochet、リコシェ)のフランス語ニュアンスは知らないので、何とも言えないが日本語ではどのような表現が適当なのだろうか。跳ね返りとは、流れ弾に当たってしまったアンラッキーのようなニュアンスも感じられる気がするのだが。

この本に綴られるのは、行動障害、適応障害を抱えながら事件後の生活や、仕事(ジャーナリスト)への取り組みとその変化を心情を(大いに)交えて記録される5年間の記録である。
当該事件(テロ)をまじかで経験した衝撃はいかほどか知る由もないのだが、このような跳ね返りとしての被害というものがあり、かつ深刻な問題であることを知らしめる意義は大いにあると思う。そして彼女がジャーナリストであったこと(その自覚を失わなかったこと)と、障害を抱えながらも奮闘して本書をリリースしたことの意義もまた大きいと思う。

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本書の要旨とは異にするが、問題はなぜこのような悲惨なテロが実行されたのか、という点を抱えながら読み続けました。
「シャルリ・エブド」とは社会風刺を主題とする週刊誌らしく、同紙が繰り返し掲載したムハンマドの風刺画であるとのこと。著者の夫は同紙の風刺画家であった(ムハンマドの風刺画を描いたのが夫であったか否かは触れられていない)。
彼女は、同紙のそしてフランス社会のユーモアさは欠かすことのできない要素だど書く。ユーモアとは、異文化、異宗教の人々を揶揄し弄ぶことも含んでの意図なのかは不明だが、風刺画を冒涜と受け取った社会の一員によって暴挙がなされたということは事実であろう。
どれだけ相手を冒涜しようと、無差別殺害、大量殺害と等価であるとは考えないが、冒涜が許されることではないことも明白なことではないか。
当該事件にかかりマクロン大統領(事件当時はオランド大統領)が「表現の自由は守らなければならない」という趣旨の発言を見聞きした記憶がある。
フランス社会、フランス人一般をよくは知らないが、「表現の自由」が絶対的なものであるという認識を持っているということが、とても悍ましい。
表現、または自由の権利とは公共の福祉に反しない限り保証されるべきもの(日本の場合)と中学校で習った気がするが、フランスにはないのだろうか?(いやそんなはずはない、類する概念はなるはずだろう)

なぜ、この悲惨なテロ行為が遂行されたのか。本書はこの点に触れない(もしくはユーモアの肯定ついての言及)。
一方的な自由の権利を振りかざす、一方的な正義を振り回す、これらを反省をもって自重しなければテロも戦争も逓減しないだろう。潤うのは武器・兵器製造会社、煽る政治家の胃袋、それらを肴にワインを傾けるフランス人らのユーモアトークくらいだろう。

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(追記)
本書により知りえたことがあった;
・ジョン・オースティン「行為と言語」 (事実確認的発語、行為遂行的発語)
・ゴドウィン点(またはゴドウィンの法則)


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