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そして今日も「フラペチーノ」が頼めない

こんなことを言うと自意識過剰だとよく笑われるのだけど、少しだけ悩んでいること、それはスタバで「フラペチーノ」と注文できないことだ。なので、スタバではアイスコーヒーを頼んでいる。

というか、夏にみんなが飲んでいる「あの美味しそうな飲み物」がフラペチーノなのかどうかも分かっていない。僕の言うフラペチーノはシェイクみたいなやつだが、合っていますか?

なぜフラペチーノと注文が出来ないか、それはあのお洒落な飲み物を自分が飲んでいると想像すると違和感だらけだということと、「この田舎者がフラペチーノなんて頼んでんじゃねーよ」と思われたらどうしようという、謎の不安からくるものだ。

いや、本当はそんなことは絶対にないと分かっている。頭では分かっているのだけれども注文が出来ない。バク宙は分かるけど出来ないのと一緒。こうなると頭は色々な「できない理由」を編み出して、注文できない自分を正当化していく。

だってさぁ、もし売り切れって言われたら嫌じゃん。
「えっ?」って聞き直されたら、もう一回「フラペチーノ」っていうんだよ?恥ずかしいよぉぉ?
「フラペテーノ」ってかんじゃうかもよぉぉ?

とか、人間は出来ない理由を編み出すのは天才的なのだ。

そういえば小学生の頃、先生がプリントを配って「後ろの席にまわしてください」というよくあるやつをした時、毎回「自分の分もありますように!」と願っていた。なぜそんなことを思っていたかというと、もし自分の分が無くて「僕の分のプリントありません」と言うのも「よーす君の分のプリントありません」と言われるのも、そうやって注目を浴びるのが嫌だった。

いや、まてよ?なんか違うな。。。だって小さい頃は目立ちたがり屋だったのだから。ということは?

・・・そうか!そういわれて「可哀そうな奴」「だっせぇ」とか馬鹿にされるのが嫌だったのかもしれない。そう考えると「フラペチーノ」を頼めないことも、すんなり注文が通らなかったときに、周りから馬鹿にされるかもしれないという恐怖からくるものなのかも、と納得できる。

卑屈で自意識過剰なメンタルしてるな、と自分でも思うけど、自分というものはなかなか変えることができない。

けれど、タリーズのエスプレッソシェイクは頼むことが出来る。だから別にスタバで「フラペチーノ」という必要はない!

そう言い聞かせて、友達が頼むフラペチーノを「美味しそうだなぁ」と眺めつつ、冷たくほろ苦いアイスコーヒートールサイズを飲みながら「スタバはアイスコーヒーが美味いんだよ」と自分を正当化する。



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有難うございます!

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