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すずめの戸締りの超超個人的な解釈(ネタバレ有り)


 何が夢で何が現実なのか、その境界線を見定めることができなかった。「目に見えるものがほんとうのものとは限らない」、片桐は自分自身に言い聞かせるようにそう言った。
    村上春樹『かえるくん、東京を救う』



 すずめの戸締りを観てきた。

 前情報は「村上春樹のかえるくん、東京を救うのオマージュであること」のみである。

 以前は、レビューにざっと目を通してから、劇場に赴くことが多かったのだけれど、今回はあえて他人の評価を遠ざけてみた。
 というのは、レビューが低いとその時点で劇場から足が遠のくし、高ければ高いで、期待値がぐんと上がり、おかしな話だがへんに落胆したり、穿った目で見てしまうことがあるからである。

 さて、前情報を極力排して観たすずめの戸締り。

 結果として、これは『かえるくん、東京を救う』と『呪術廻戦』を足して二で割ったみたいな話、というのが率直な感想。

 まず、好みだった点は、『君の名は』と『天気の子』で引っかかったキャラクターの性格と、演技のぎこちなさが、今作はまるで気にならなかったこと。
 原菜乃華さんの声はあっさりと爽やかで、清潔。雑味がない感じ。松村北斗くんの声は、厚みがあって、胸にまでしっかり落ちてくる。ふたりの声の対比がとても良く、両者とも癖がない声なので、演技に意識を削がれることなく、本筋に没頭できた。

 そして、ストーリー。前情報で村上春樹の『かえるくん、東京を救う』のオマージュ(という説があるだけで、公式で言及されているわけではないですが)と聞いていたので、前日ぎりぎりに読み終え、いざスクリーンへ。すると、思いのほか『かえるくん、東京を救う』で、おどろきつつ、笑いつつ。

 ちなみに、すずめの戸締りのあらすじをざっくり説明すると、とある田舎町で出会った少女と青年が、地震を起こす〝ミミズ〟を止めるため、全国各地を奔走する話。ミミズの出処である〝扉〟は廃墟にあり、それを戸締りすることで、ミミズを止めることができるという設定である。

 対して、村上春樹のかえるくん(タイトルが長いので、以下省略致します)は、いきなり自宅に現れた大きなかえるから、「地震を起こそうとしているみみずくんと、一緒に闘ってほしい」と頼まれるという、何とも奇異な物語である。

 というわけで、あらすじを語るかぎりでも、似ている点は十分にある。第一に、地震の原因をみみずという不可解なものにしている辺りが、オマージュとも言われる所以なのかもしれない。

 また、他にも共通点がある。

 すずめの戸締りの劇中では、しばし「君は死ぬのが怖くないのか!」という台詞が出てくるけれど、村上春樹のかえるくんでも「最高の善なる悟性とは、恐怖を持たぬことです」や「真の恐怖とは人間の自らの想像力に対して抱く恐怖のことです」などと、恐怖という言葉に焦点が当たる。

 両者とも地震という自然災害を主題としている。が、以上の台詞やみみずの存在から浮き上がってくるのは、地震はこれらの作品において何かのメタファーとも捉えられる、ということである。勿論、地震そのものが重大なテーマであるのは重々承知している。ただ、それらの裏側に、ささやかに語りかける詩のような何かがある気がしてならない。そういった印象を受けた。

これはわたしが、『呪術廻戦』を想起した理由とも繋がってくる。

 次に、わたし思う呪術廻戦との関連性。それは、廃墟にミミズの出処である〝扉〟が存在しているところである。

 ミミズは劇中で「目的も意思もなく、歪みが溜まればただ暴れて土地を揺るがす」と伝えられている。そして、廃墟は見捨てられた地。ここから淋しさや、悲しみ、陰の想念の蓄積が歪みに繋がってゆく、と解釈もできる。
 さらに、劇中で取り上げられている廃墟は観光地や遊園地、学校など、人々の心の中で何遍も思い返される場所である。

 呪術廻戦とは、人間から流れる負の感情〝呪い〟をテーマにした作品。
 作中で「学校や病院などのような大勢の思い出に残る場所には、呪いが吹き溜まりやすい」「辛酸、後悔、恥辱。人間が記憶を反芻する度、その感情の受け皿となる」と言われている。

 すずめの戸締り内では、そういった負の感情に対する描写は、直截的にはされていなかったものの、扉を締める(ミミズを倒す)条件として「その土地に居た人々の声を聞く」というシーンが描かれている。
 主人公が目を閉じ、かつていた人々の声が彼女を通じて蘇ってゆく。そしてその声に身を委ねながら、扉を締める。

 舞台が学校や、観光地であることも相まって、わたしはそのシーンを見ているとき、呪術廻戦のことを思い出さずにはいられなかった。


 すずめの戸締りは、「わたしたちがそこに何を見据えるのか」によって、解釈がおおきく異なってくる作品だと思う。事実、インターネット上には、様々な有識者達が、多様な解釈を発信している。

 そういった中でわたしがこの作品から受け取ったものは、これは目に見えない〝想念〟を描いた作品なのではないか、ということ。

 以前、わたしが呪術廻戦の映画を観た際に、「自分の負の感情が知らず知らずのうちに誰かを呪っていたら怖いな」と呟いたことがある。

 そして、今回、わたしはすずめの戸締りを観て、全く同じことを感じた。

 すずめの戸締りにおいて、地震というものは人の負の想念のメタファーで、それらを可視化したものがミミズなのではないか、とわたしは仮定する。些か乱暴なのは承知であるし、これはわたしのとても個人的な解釈である。ただ、わたしはこの作品を、こういう風に受け取ったのだ。

 現代は負の感情や負の言葉に対しての感覚が鈍くなっている。言葉を粗雑に扱うことに対しての忌避感がまるでない。他人に負の感情をぶつけることに対して、ためらいがない。それは匿名社会故の性かもしれない。
 そして、このようなことを吐き出すわたしであっても、嫌悪する人が叩かれているのを見て嬉々としたり、自らの欠乏感を誰かへの批判で埋めようとしている節がある。まったく醜悪だと思う。自らの醜悪さを自覚した途端、心底くるしくなる。

 そういうときに、負の感情、言葉の行き場について一考してみること。
 今、わたしたちの想念が地震を起こすことは、科学的には有り得ない。想念が直接的な形をとることは、無いに等しい。

 それでも、わたしたちが負の言葉を、感情を放出したとき、それはどこに溜まってゆくのだろう。どこに流れ着くのだろう。

 そう考えてみることが、この暗く翳った世界における、ささやかなランプのような役割を果たしてくれる気がする。

 すずめの戸締りや、呪術廻戦など、人の「想念」や「言葉」に焦点を当てる作品が増えてきた今。

 そのような作品から自分がどのようなメッセージを受け取り、どのように咀嚼していけるのか。言葉や想念を描く末端のもの書きとして、不器用ながらも考えていきたいと思う。
 
 

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