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随筆|何かを演じながら生きるということ

人は、何かしらの自分を演じて生きているように思う、ある有名な社会実験が1971年に行われたが、これは、心身ともに健康な21人を看守と囚人にそれぞれ分け、その様子を観察する実験である、仮説として、役割を与えられた被験者は、その通りに行動を全うするというもの、結果は、看守役はより看守らしく、囚人はより囚人らしく振舞った、その実験内容には諸説あるようだが、大まかにいうとそういった事実を得ることが出来たのである

人は、社会的な器に身を投じた時、それらしく振る舞うし、それ以上のことは、見えない制約の中では、振舞うことが出来ない、これが真実だとした場合、僕が今置かれている現状に対して、僕はその役目を全うしようとしているに違いない

稚拙な例えではあるが、野球選手は、サッカー選手のようには振る舞えない、何故なら、野球選手は野球選手としてのフィールドで生きているからである、野球選手がサッカー選手のように振る舞おうとしても、野球の試合中は、フリーキックは出来ない、サッカー独特の、場を読みつつ、どのスペースに自分がいれば、流れが変わるかなど、野球選手には、それに似た仕草は出来ても、丸っきり、そのスポーツのルールの構造が違うのだ、真似することは出来ない

僕が今生きている環境は、それ以上でもそれ以下でもない、それが全てなのである、僕がそこから先に抜けようとした時、きっと底知れぬ不安に苛まれるだろう、それは、その環境に身を置くことの安心を、誰よりも知っているからである、僕は、この環境に甘えている

同時に、抜け出すことにおけるメリットを考えることは出来ても、新しい環境に恐怖することの割合の方が、僕にとっては大きい、それは今現在の精神状態にもよるし、変化を嫌う自我の単純な防衛反応とも取れる

話は変わるが、相模原市の障害者施設で19人が殺傷された事件で、容疑者の元職員が、法廷で取り乱し、中止になったというニュースを見たときに、何故か違和感を感じてしまった、追い込まれた時に、自分の弱みを強調する事で逃避することは、これは誰にもある事である、兄弟喧嘩をした際に、自分が弱いと判断すれば、負けたふりをして相手に勝たせる手法は、僕の中での逃げであった

今回の法廷での事柄は、事件の解決の発展には寄与しない、容疑者のただの逃避とも取れる、容疑者という役割を全うしようとした時、そこから逃避することは、それはその役目を全うしたとは言えない、法の下で裁かれ、罪を償い、全うに生きていくことがその容疑者にとっての責任ではないだろうか

僕は、今、暗闇にいる、罪を犯したわけではないが、罪を償わなければならないような意識に自分を持っていってしまう、それは、この環境に対する自分の役目を全うしようとした時に、耐えきれず逃避する心の弱さが、罪を償うことへの意識に変わっているのだ、生きているだけで罪だなどと、考えることは非常にナンセンスだ、罪であるはずがないからである、僕が僕を全うしようとした時に、どんな役割が与えられているか、法廷で取り乱して、自分を追い込む事ではきっとないのであろう

人は何かを演じながら生きている
自分が置かれた環境で、何をどう演じるか
自分の意志が全てなのであろう


いわゆる、駄文