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随筆|「赤いリンゴ」

リンゴは赤いが、赤いリンゴだけが全てではない

赤いリンゴとわざわざ銘打ったのは、リンゴの赤を強調したいからである、赤いリンゴ、それだけで脳内に赤いリンゴが想起される、赤いリンゴ、赤いリンゴ、ずっと見続けていると、ゲシュタルトの崩壊に繋がる、赤という文字の、スタンダードな姿形が、何処か意味を持たない、ただの文字として成り立つ瞬間である

さて、僕の存在は、何回も見続ける事によるゲシュタルト崩壊を招いた赤いリンゴのように、その存在が、時に、ただの物体としての側面を強く纏うものとして現れる瞬間がある、海をボーッと眺めている時なんかは、これが強く出る事がある

忘我と呼ぶべきか、目の前に広がる風景、海と空だけの、何も遮る物がない晴々としたその水平線、そこに見入っている時、僕は、そのものと一つになった様な感覚を得る、思考する事で、自我が顔を出し、否が応でも自分を認識せざるを得ない状況が常である日常の中で、この様な特別な体験は、ふわふわと漂う雲の様に、その心地に酔いしれる事ができる

もう何年も海を見ていないが、海は心の洗濯にピッタリな空間である、自然の息吹を強く感じられる、それに飲まれて、海に還るが如く、人は忘我する、この瞬間がたまらなく愛おしく想える

僕は、東日本大地震の被災者として、当時、福島で大学生活を送っていた、3回生の春休み中に、地震は起きた、海沿いの街は、津波によって流され、避難生活を余儀なくさせられた、僕は丘の上のアパートに住んでいた為、津波の直接的な被害は免れた、物資の供給もストップし、水道が使えない状況で、2週間ほど過ごしたが(ライフラインが全部ストップしてしまった方々に比べると、まだ救いだった)、生きることの当たり前を、そこで再認識することが出来た、生活に慣れて、大学も再開したある日のこと、僕は何を思ったのか、まだ暗い時間帯に、海へと自転車で向かった

時折、陥没している道路を横目に、街灯が付かない暗い道を、頼りない懐中電灯で照らしながら自転車を漕いだ、着いた砂浜に足を踏み入れた時、海の様子がおかしいことに気がつく、波のサイクルが、一定ではなくなって、そこには穏やかさが全くなかった、轟がその空間を支配していた、僕は恐怖を感じた、地震の影響で、地殻変動が起きたのか理由はよくわからないが、あの、漂う雲の様な心地が一転して、全てを呑み込んでしまうブラックホールの様な、自己を破滅させてしまうくらいの具合に、それは仕上がっていた、あの海はどこへ行ったのだろう、忘我する事など、出来なかった

あれから何年経ったのだろう、あの海は今はどんなリズムで生きているのだろう、海と一体化して、その心地に酔いしれる以前の海へと戻ったのだろうか

赤いリンゴ

そのものの意味が、意味として機能せず、物体として、ただ「在る」ということの隠された普遍さよ、僕はあの海に、その普遍さを見出していた、僕は、ただ、その場でその空気感に身を預けていたかった

さて、話は変わるが、2時間ほど前、薬局で偶然にも仕事仲間と会った時に、僕は何故か赤面してしまった、顔がほてり、汗が出てしまった、よくお会計時に、財布の中の小銭を出す事にもたつくと、同様の結果が生まれる、過剰に、人からどう思われているかについて、気にするからか、これは自我がふんだんに表面に現れている結果でもある

それを対人恐怖の一種だと捉える見方もあるが、その程度の強さで、社会生活が営まれなくなるくらい、重症化してしまう方々もいらっしゃる、僕は、そのカテゴリーに含ませるなら、軽度のそれであろう、まだ、病的ではない

思考や心の癖が、同じ行動・結果のプロセスを辿るのであれば、そこを見直すことも重要である、僕は、それを自我の問題と位置づけることを視野に入れているが、まあ、これはまた深く掘り下げると長くなってしまうので、割愛する

赤いリンゴは、元々は赤面症からくるイメージを持って付けたタイトルであったのだが、話が横道に逸れすぎた様だ、論理は繋がっているのだけどね

海について、想いを馳せる瞬間、海を愛おしく思った
忘我の領域に、身を預けることの幸福よ
ただありのままの普遍さを それを誰かは愛と呼ぶ

何もかもが自分を支配している時に思い出してね、赤いリンゴ、まとまり悪くてごめんねごめんねー

したらば!!!!!

いわゆる、駄文