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時間が身の回りの環境を研ぎ澄ましていくことを感じる今日この頃〜日々短文日記〜(20191122)

相変わらず25時以降に作業が集中できるホワイトカラー不向き人間驀地の筆者です。こんばんは。

『類は友を呼ぶ』とか『似たもの同士』とかいう世界で話をするならば、幼稚園の時に比べて大学時代の知人や友人は自分と似てる人が多いなぁと感じるでしょ?となる。『人は自分に持っていないものに惹かれる』とか『自分と他人は違う』とかいう思考で何かを語る時、"価値観"や"劣等感"とかそこら辺の言葉が脳裏をよぎる。

題名に記されている『環境』、ここでは"人間関係"ってやつのことを意味しているのだけれど、僕の人間関係って時間がどんどん研ぎ澄ましているなぁと感じたから今日はそれについて書こうと思ったという話。

最近家族で盛り上がった話が1つあって、『人って自分と同じくらいの身長の人と群がってること多くない?』という疑問のような自己結論のようなもの、世の中の人はどう思うのだろうか?確かに僕がよく一緒にいる人って同じくらいの身長の人が多い気がする。『全く多様性感じられないじゃねーか!』とかそんな批判が欲しいわけではなくて、ただ無意識にふと思ったって話。身長の話は序章にもならないのでここらでおしまい。

今振り返ると、中学高校の頃は自分が関わることのないような人たちにたくさん常に囲まれながらコミュニケーションをそれなりに経て過ごしてきたなぁと感じる。大学は基本的に初期設定されたクラスみたいなものが無いのでそりゃそうだろとか思うのだけど、今思うと小中高のクラスって面白い。小中高生だけじゃなくて社会人で会社勤めのデスクワークサラリーマンの人たちも部署内では横の席にいるのは同じ部署の人がそれなりにいると思うのだけれど、生徒時代って四方八方色んな人間に囲まれてた人がそれなりにいるんじゃないかな?僕自身高校3年生の時は目の前にラグビー部のゴリゴリ優男マッチョくんで、斜め左上には投擲面白男子くんで、左横には爽やか整い顔のソフトボール野郎だった。僕は吹奏楽部、所謂文化系なのに体育会系に挟まれてるのって大学生身分の今思い返すとめちゃくちゃ刺激的な日々。しかも僕は見た目がパッとしない地味な男子像の自覚を持って生きていたけれど、彼らは僕からみたらキラキラパーティー系だった。時間が作り出してくれた環境には恩恵を感じたり災いを感じたりとどちらもある。色んな人が周りにいるって観点では特に意見が分かれそうなご時世である。

そんなことを急に考えさせられた理由、実はさっき業務的なことで協力してもらってた知人から来たメッセージの1部がそう思わせてくれた。

行動した量と後悔の量は反比例する。

いい言葉だなぁと心の底から感じたセリフを何気なく打ち込んできた同期。僕はやっぱり行動と後悔が比例する世界線で生きたいとは思わないし、そのためにはあらゆる"正しい"を見極める力とあらゆる"理不尽"を捻じ曲げるような正解を作り出す力を併存させれるような人でいるのが割と個人的には結局最適解のつもり。

このセリフを言ったのは僕が来年行く予定の会社の同期の1人。所属するコミュニティに同じような考えとか感性の人が歳を取るにつれて自然と集まりやすくなる法則ってあるよなぁ…考え方も固まって意思の表現とか言語化ができるようになっていけば、その人がどういう特性なのかとかそれなりのキャラクター性が生まれる。セグメンテーションほどではないが、人類は○○のタイプに分けられるとかいう細分化及び統計力による答え合わせもどきの予測みたいものが世の中には存在する事実だったりそこらの需要が存在することを少し違うベクトルで逆算したり解析すれば、きっと人間関係って時間がある程度研ぎ澄ましていく説は証明されるのではないか?と思った話。だからこそその事実を踏まえて逆光するように、寛容さや好奇心ってものを身につけろとか言われるんだなぁ…って思った話。無知の知を前提とした時間による環境の研ぎ澄まし人と、考え方No確立,Acually硬直の人とで大きな差が生まれる話の根拠の1つにでもなりそうだなと思った。

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