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「言い寄る」田辺聖子

「あしたの晩、とりにきて。一人でね。」
と男はいった。
「どうして晩なの?」
「夜の方が仲良しになりやすい。」

ときめいた文章。完全な下心から溢れ出る上品さ。何より洒落ている。

何度も読み返しては、乃里子に憧れる。

わたしの中では恋愛小説の最高傑作だネ。

金持ちの色男•中谷剛や趣味人の渋い中年男•水野ら、いい男に言い寄られても、痛いくらいに愛している五郎にだけは、どうしても言い寄れない31歳フリーデザイナー独身女•乃里子のはなし。(わたしは水野に遊ばれたいナ。)40年ほど前の本だとは感じさせない、古さがない。

世の中には二種類の人間がある。言い寄れる人と言い寄れない人である。(中略)
言い寄って拒絶されたら、さしちがえて死のうというような、しんから惚れてる人間の場合は、これは失敗を許されないから、究極のかたちは強姦致死になってしまう。

つまり、本当に心の底から愛していたら、まずは相手の立場に立って考えてしまうということ。言い寄ってしまったら、私のことを厭わしくなるのではないかということ。

あー、これは恋愛の心理です。
好奇心と少しのすけべ心で軽やかに話し、抱き合えるわたしがいるのに、途端に言葉が詰まり、あれやこれよと考えて空回りするわたしもいるという現実。

男は常に最短距離で走ります。そんな男に女は消費されていくのでしょう。(振り返って時間の無駄だと思うか、良い思い出だと思うのか。)
しかし、そうやって、わたしがぐねぐねとまわり道をしている間に、わたしの愛する人だって、常に女の手を引いて最短距離で走っているのです。

そんなことを考えていたら、発狂しそうになる。だけど言い寄れない。そういうことです、田辺聖子先生。

惚れたもの負け。

最近、職場の後輩くんが、
「3年付き合って同棲していた彼女がバーテンの男とコソコソ車で会っているところに遭遇した」という話をしてくれました。彼はその彼女を引っ叩いたそうです。じゃあ、その彼女も彼を引っ叩いたそうです。なんで??修羅場です。
その彼女は同棲していた家から無言で立ち去り、荷物は置いたまま。おそらくバーテンの男の家に転がり込んだんだと思います、と彼はいう。
それでもなお「荷物はまだ置いておきたいし、写真も置いておきたい」らしいです。
まさに惚れたもの負け、逆にいうと、惚れられたら勝ちなわけ。

それでもやっぱり惚れる側でいたい。

でも、いつか、一人でも大丈夫だけど、一人は嫌で、疲れてしまって、誰かに守ってもらいたい、と思うときが来るんだと予感している。

収まるところに収まる。そういうもんか。
収まるところがなかったらどうしたらいい??


と•に•か•く

乃里子が格好良い。
軽快なリズムで男と話せる女はそそられる。
美しい女よりおもしろい女になりたいとつくづく思う。

そして、何より田辺聖子が操る関西弁は素晴らしい。
大阪出身でよかった。セリフが目からも耳からも入ってくる。なんというか、そのときどんな目つきで、どんな口元で、どんな声色で、どんな風にして言っているかが容易に浮かんでくる。不思議です。

関西弁というのは言葉通りに鵜呑みにしてはいけないときがあるのです。その関西弁の気まぐれな色気というものが存分に現れ出ている稀有な作品。関西弁の男は良い。

「言い寄る」を読んでしまえば、「私的生活」「苺をつぶしながら」を読まなければ!
読書生活が充実する!!明日は久しぶりにお気に入りのワンピースを着て図書館にでも出かけようかしら。

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