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名前と実体

人間はものごとに名前をつける動物だ。
頭の中で言葉を使ってあれこれ考える時、考える対象に名前がないとやりにくく、名前をつけることで整理されてとても考えやすくなる。

名前は、実在するわけではない。あるものごとをある名前で呼ぶ人々がいなくなれば、その名前は世界から消失する。しかし、その名前で呼ばれていたものごとは、その後もなんら変わることなく世界に存在しつづけることができる。
例えば日本語ではこの宇宙でもっとも単純な元素を「水素(すいそ)」と呼ぶ。将来、日本語を話す者がいなくなったとき(遅くとも地球がなくなっている50億年後までにはいなくなるだろう)その元素に付けられた「すいそ」という名前は失われるが、宇宙には「すいそ」と呼ばれたその元素が、相変わらず大量に存在しているだろう。
名前は実在しない。世界を認識する者が便宜上付けたラベルにすぎない。

ところが、名前が有するインパクトはときに強力で、単なるラベルに過ぎない名前によって、その実体の印象が大きく変わったりする。名前が単なるラベルではなく、生来備わっている性質のように勘違いされると、その実体に対する理解も誤りかねない。

——などということを考えたのは、つい先日、とあるDiscordサーバで、次のような雑談を目にしたからだ。

A「オオカミはイヌじゃないの?」
B「イヌと一緒にされたら怒るだろ」
C「Wikipediaに『オオカミは現存するイヌ科の動物の中で最大の動物である』って書いてある」
A「やっぱイヌじゃん」

たわいのない雑談で論争しているわけでもないのだが、ここでAさんが「やっぱイヌじゃん」という印象をもったのは、おそらくは、オオカミがイヌ科に属していると理解したからだろう。
細かく書けば、オオカミはイヌ科イヌ属オオカミに分類され、二名法による学名は $${\textit{Canis lupus}}$$ 、$${\textit{Canis}}$$ はイヌ属を意味するラテン語だ。分類上、オオカミはイヌ属に属する種のひとつということになる。

なので、オオカミは、広くみればイヌだ——と考えるのは正しいか?

オオカミとイヌが動物の中でも非常に近縁で、進化上とても近い仲間であることは確かだ。地球上のものすごく多様な生物相の中で、かなり近い親戚だといって差し支えない。

しかし「イヌ科(あるいはイヌ属)に属しているのだから、オオカミはイヌだ」と考えるのは、ハッキリと誤りだといえる。
文「イヌ科に属しているのだから、オオカミはイヌだ」には「イヌ科」「イヌ」と、イヌを指す言葉が二度登場する。
このうち、後者は、ぼくたちが日常「イヌ(犬)」と読んでいる動物たちを指している。一方「イヌ科」はイヌを含む、ある特徴を共有する哺乳動物のグループに付けられた分類名である。ここでその詳細に踏み込むことはしないが、イヌ科に属する動物には、オオカミやイヌの他にタヌキやキツネ、フェネックやジャッカルが含まれる。
上文の「イヌ」が、実在する犬たちを指しているのに対し、「イヌ科」はこれらの動物のグループを指すラベルに過ぎない。畢竟、「イヌ科」でなく、「オオカミ科」「キツネ科」「タヌキ科」と名づけられていたとしても、何の問題もなかったはずだ。
仮に「タヌキ科」と名づけられていたとすると、先の雑談はこう書きかえられる。

A「オオカミはイヌじゃないの?」
B「イヌと一緒にされたら怒るだろ」
C「Wikipediaに『オオカミは現存するタヌキ科の動物の中で最大の動物である』って書いてある」
A「やっぱイヌじゃん」

末尾のAさんのひとことは、やや唐突な印象を帯びる。
仮に「オオカミ科」と名づけられていたとすると、

A「オオカミはイヌじゃないの?」
B「イヌと一緒にされたら怒るだろ」
C「Wikipediaに『オオカミは現存するオオカミ科の動物の中で最大の動物である』って書いてある」
A「やっぱイヌじゃん」

となってしまう。

「イヌ科」という、別の名前でもよかったけど、とにかく何か名前をつけて共有するためにつけました——「タヌキ科」でも「オオカミ科」でもよかったけれど、とりま「イヌ科」で、というラベルに過ぎない呼び名から「イヌ科に属する生物は、イヌの仲間だ」という誤った印象が産まれてしまうことがある。
もちろん、オオカミやタヌキは同じ科に分類されている通り、イヌの仲間ではあるのだけれど「イヌ科」というラベルによって「オオカミはタヌキの仲間だ」「イヌはキツネの仲間だ」よりも「オオカミはイヌの仲間だ」という言明の印象が強くなってしまうのであれば、それははっきりと誤りだといえる。

名前はとても便利なもので、人間が名前を使わずに複雑なものごとを考えることはほとんど不可能だとすら思えるが、名前を用いることによる落とし穴もたくさんある。この雑談にでてきた、実在する犬たちを指す「イヌ」と、分類学上の共通点を持つ動物のグループを指すラベルである「イヌ(科)」を同じものとして混同してしまうのも、名前を用いる際に陥りがちな落とし穴のひとつだろう。

ちなみに、イヌ科はより広い分類では食肉目に含まれる。食肉目は別名ネコ目なので、オオカミは、ネコ目イヌ科イヌ属オオカミ、イヌはネコ目イヌ科イヌ属イヌと分類される。
だからといって「イヌってネコじゃん」とはならないだろう。ラベルはラベル、単なる文字列に過ぎない。

深入りしたい方へ

名前に関する論考は数多くある。人間がものごとつける名前(固有名)とは何かを深く考えた古典としてはソール・クリプキ「名指しと必然性(Naming and Necessity)」(1972)などがある。

タイトル画像について

タイトル画像は、Chris Muiden氏の作品(Creative Commons Attribution-Share Alike 3.0 Unported ライセンス)を加工したもので、同一ライセンス下にあります。


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