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映画感想メモ 『地球破壊命令 ゴジラ対ガイガン』

ゴジラとアンギラスが吹き出しで会話しているシーンで有名な映画。その時点でだいたいクオリティの予想は付いていたのだが、まあ実際見てみてその通りだった。

冒頭いきなり昭和のホラー漫画みたいな画風の漫画が始まって、なんだなんだと思ってたら、それは売れない漫画家(?)である主人公が書いた漫画だった。当時こういうのが流行っていたのだろうか。古い映画を見てるとたまにこういうことがある。

そしてその流れでクライアントとして「世界子どもランド」なる怪しげな施設を紹介されたことで大きな陰謀に巻き込まれてゆき、とうとう宇宙怪獣ガイガンとキングギドラが現れて……というストーリーなのだが、その流れにゴジラがほとんど絡んでこないのが気になった。今回のゴジラは主人公らのあずかり知らないところで異変を察知し、例の吹き出し会話でアンギラスに偵察させた後に、現れたガイガンとキングギドラと戦う。ゴジラである必然性みたいなものも感じず、とりあえず戦うのが役目だから戦ってるような印象を受けた。

反面、人間ドラマパートは結構良かったな。というか、前半のドラマパートはかなり面白いと思いながら見てたんだけど、ドラマパートを一旦中断して怪獣バトルが始まったところでちょっと飽きてきてしまった。怪獣映画としてそれで良いのかという感じなんだけど、どうにも今回の怪獣バトルには乗りきれなかったのは事実だ。

この消化不良感は何なんだろうと考えてみた。結果、おそらくドラマパートと怪獣バトルの接続が微妙だと感じた所為なのだろうという結論に至った。両者が完全に分離しちゃっているような感じがしたのだ。この間見た『対メガロ』もそうだったんだけど、これくらいの時期で一旦、物語の中で「ゴジラ」という存在をどう動かすのかが迷子になっちゃったんだろうというのがひしひしと伝わってくる。

伝え聞くところによると、この映画が公開された1970年代はウルトラマンやら仮面ライダーやらが席巻する一大“特撮ヒーローブーム”だったらしい。そしてゴジラもまたその需要に乗り、ゴジラを「正義のヒーロー怪獣」として売り出していたそうだ。実際、『対ガイガン』でも『対メガロ』でも、「ゴジラが最後の切り札だ」だの「ゴジラを呼ぼう」だのとゴジラが人間の味方である前提で話が進んでいるし、ゴジラ自身も敵を「悪い奴」と認識した上で能動的に倒しに行ってる様子が描かれている。おまけにエンディングで流れた歌とかでは完全にゴジラが「正義のヒーロー」扱いだ。

しかし所詮巨大な獣でしかないゴジラを「ヒーロー」として扱うのには土台無理があったのか、どちらでもゴジラはほとんど舞台装置みたいな扱いを受けている。悪者がやってきたら自動的に現れて撃退するデウス・エクス・マキナのようだった。多分だけど、一番の敗因は変に「いい奴」として擬人化してしまったがために、逆に人間と絡ませづらくなった点だろう。

怪獣と人間とではあまりにもスケールが違いすぎるから、物語の中に怪獣の存在を組み込む手段はだいぶ限られている。その中でも特に初歩的かつ普遍的なのが「暴れ回る怪獣の足元で右往左往する人間」という構図なのだが、ゴジラが正義の味方化したことで、この手法が使えなくなってしまった。もう一つは『キングコング』や『モスラ』などのように、怪獣と心を通わせるキャラクターを用意することなんだけど、それだと物語の幅がだいぶ狭まってしまう。少なくともガイガンやメガロの話にその要素を入れ込む隙間は全くない。その結果、「人間は人間、ゴジラはゴジラ」という状況になってしまったのだろう。とはいえもうちょっとやりようはあっただろと思ってしまう。

今公開中の『ゴジラvsコング』は人間ドラマの薄さが一部でだいぶ不評を買っているが、この時期のゴジラを見ちゃうとあれもかなり良くできていたと思う。とりあえず、ちゃんと人間と怪獣とが接続されてただけでも素晴らしい。


画像出典:映画.com

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