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「理解する」とは、どういうことか?

企業における研究マネジメントの考察(6)
企業における研究部門のマネジメントについて考えたことを整理しています。

前回、知の創造プロセスの中で、体系化された「知識」を納得することで、「理解」になると説明しました。では、人はどのような場合に「理解した」と思うのでしょうか?

今回は、「理解」段階について考えていきたいと思います。調べてみると、「理解」は哲学でよく研究されていました。

「理解」とは?

我々が或る物事を知っていると言いうるのは、我々がその物事の第一の原因を認識していると信じるときのことだからである
出典. アリストテレス 「形而上学 上 (Japanese Edition)」 (第一巻第三章)

まず、アリストテレスは、「理解している」「知っている」とは、「物事の第一の原因を認識していると信じていること」だと言っています(上記引用は、訳者の補足です)。すなわち、「理解」とは「原因はこれだ!」という「信念」の一種です。

次に、物事を経験している経験家と物事を知っている知者(知恵を持つ者)の比較を行っています。ただし、”経験が人間に生じるのは記憶から(「形而上学」第一巻第二章)”で、”学問や技術は経験を介して人間にもたらされる(「形而上学」第一巻第二章)”ことが前提になっています。

経験家の方は、物事のそうあるということ〔事実〕を知っておりはするが、それのなにゆえにそうあるかについては知っていない。しかるに他の方は、このなにゆえにを、すなわちそれの原因を、認知している。
出典:アリストテレス「形而上学 上 (Japanese Edition)」(第一巻第二章)

例えば、大工の棟梁と手下の職人を比較すると、手下の職人は大工の作業を経験している経験家ですが、棟梁は多くの作業で構成される仕事全体の原因を知っているので知者となります。すなわち、棟梁は仕事を「理解」していることになります。

では、人を「知恵(ソフィア)がある」と認識するのはどういうときでしょうか。これの特徴について、アリストテレスが分類していますので、紹介しておこうと思います。
 (1)可能な限り全ての物事を認識している
 (2)人間には容易に知れないような物事を知る能力がある
 (3)いっそう多く正確である
 (4)いっそうよく物事の原因を教えられる
 (5)効果に関わらず、知る自体が望ましいこといっそう多く知っている
 (6)王者的な学をいっそう多く知っている

ここから、アリストテレスは、「知恵(ソフィア)」は、以下のような特徴を持つと言っています。
 (1)普遍的である
 (2)普遍的な物事は、感覚から最も遠く、最も困難である
 (3)より少ない原理から出発している
 (4)第一の諸原因を理論的に説明できる
 (5)最も可認識的なもの(第一の原因)を対象とする
 (6)物事が何を目的としてなされるべきかを知っている

私は、これを、「理解」という「信念」を持つには、「普遍的であること」「より少ない原理で説明できること」「第一の原因を理論的に説明できること」「目的が何かを知っていること」のどれか、あるいは全てを満たすことが必要と解釈しました。

アリストテレスの四原因

アリストテレスは、ピタゴラスや師のプラトンを含む過去の哲学者が考えた原因を、4つの原因にまとめています。

質料因
これは、アリストテレス以前の哲学者の多くが考えていた原因で、素材や構成要素のことです。アリストテレス以前の哲学者たちは、火(ヘラクレイトス等)や水(タレス)、空気(アナクシメネスなど)、土(エンペドクレス)、数(ピタゴラス一派)などを生成も消滅もしない構成要素と考え、これを原因と考えていました。

すべての存在のそのように存在するのは、それからであり、それらすべてはそれから生成し来り、その終りにはまたそれにまで消滅し行くところのそれ、こうしたそれを、かれらは、すべての存在の構成要素〔元素〕でありもとのもの〔原理〕であると言っている。
出典:アリストテレス「形而上学 上 (Japanese Edition)」(第一巻第三章)  

たしかに、例えばスマートフォンをパーツに分解して、基板やバッテリーやカメラといった構成要素を見て「こういう構成部品でできているんだなぁ」と納得することは、人によってはありそうです。

始動因(作用因)
質料因は静的な原因であり、素材が存在するだけでは物事になり得ないことは、アリストテレス以前の哲学者も気付いており、素材が別のものに転化する原因も必要だと考える哲学者もいたそうです。

かれらがここまで進んでくると、事態それ自らがかれらに道をひらき、新たな問題の探求にかれらを駆りたてた。すなわち、たとえすべての生成や消滅が或る一つのものまたは一つより多くのものからであることは当然であるとしても、それがなにによっておこるか、なにがその原因であるかは別の問題である。
出典:アリストテレス「形而上学 上 (Japanese Edition)」(第一巻第三章)

たしかに、例えば、カレーライスの材料(スパイス、野菜、肉、米)が存在するだけでは、カレーライスはできません。材料をカレーライスにしようとする人(始動因)が調理するという行為(作用因)も原因と考えられます。

形相因
形相因は一番理解が難しいです。形相因は、プラトンのイデアに対応する原因ですが、イデア論は徹底的に批判し、次のように定義されています。

我々の主張では、そのうちの一つ(1)は、物事の実体でありなにであるか〔本質〕である。けだし、そのものがなにのゆえにそうあるかは結局それの〔なにであるかを言い表わす〕説明方式に帰せられ、そしてそのなにのゆえにと問い求められている当のなには窮極においてはそれの原因であり原理であるからである。
出典:アリストテレス「形而上学 上 (Japanese Edition)」(第一巻第三章)

つまり、形相因とは本質のことです。では、本質とは何かというと、次のように説明されています。

・本質なるものはただそれの説明方式がそれの定義であるものにのみ存するものである。(第七巻第四章)
・〔それの説明方式がそれの定義であるのは〕その説明方式が或る第一のものを説明している場合である。(第七巻第四章)
・第一というのにも多くの意味があるしかしそれにもかかわらず、そのすべての意味で実体は第一である。(第七巻第二章)
出典:アリストテレス「形而上学 上 (Japanese Edition)」

そして、実体(本質を含む)とは「何であるか」であり、「どのようにあるか」(性質)や「どれくらいあるか」(量)ではない、とも説明されています。つまり、それを形容する言葉は、附帯的な属性であって本質ではないと説明されています。簡単に言うと、「Aは、Aである」としか言えない事物のことでしょうか。

例えば、私たちは他人の顔を顔として認識できますが、それが写真であっても、絵であっても、壁のシミであっても、自然に作られた目のような陰のある石であっても、絵文字(・・)であっても顔と認識できます。これは、素材によらず、私たちが顔のイメージ(本質、形相)を持っているから、ということなのではないでしょうか。カレーライスの材料があっても、調理するには「カレーライスはこういうものだ」というイメージ(本質、形相)が必要です。

では、形相因により理解したと信じられる場合とは、どのような場合でしょうか。上記の例からすると、頭の中に統合されたイメージ(本質、形相)が出来上がることだと思います。頭の中のモヤモヤとした霧が晴れるような感覚ではないかと推測できます。

私自身は、学生時代に勉強をする中で、急に数学が理解できるようになったり、急に量子力学が理解できるようになったりした経験があります。このとき、「数学のとはこういうもの」や「量子力学とはこういうもの」という統合イメージが出来上がったのかも知れません。

目的因
始動因が開始の原因であったのに対し、目的因は終わりの原因です。アリストテレスは、次のように説明しています。

そして第四は、第三のとは反対の端にある原因で、物事が「それのためにであるそれ」すなわち「善」である、というのは善は物事の生成や運動のすべてが目ざすところの終り〔すなわち目的〕だからである。
出典:アリストテレス「形而上学 上 (Japanese Edition)」(第一巻第三章)

物が存在している目的(例えば「カレーライスは食べられるためにある」等)は、改めて説明されるほどのことでもなく、当然と感じる場合が多いです。

しかし、人の行動の場合は、行動目的(すなわち動機)を説明すると納得されることが多いと思います。例えば、「毎朝ジョギングすることにした」と友人に話すと、「なぜ?」とよく聞かれますが、このとき「ダイエットのために」と目的を言うと、友人は納得してくれると思います。ただし、本当の理由は別にあり、納得されやすい原因を述べただけという可能性もあり、目的因は正しさという点では注意が必要かも知れません。

原因の分類

四原因は、質料因と形相因が物事の「構成」を説明する静的な原因で、始動因(作用因)と目的因は物事の「変化」を説明する動的な原因です。また、質料因と始動因(作用因)が機械論的な世界観で語られる原因なのに対し、形相因と目的因は思想や観念といった主観が混ざる原因です。これをまとめると、下図のようになります。

理解の仕方

アリストテレス以降、ニュートンによる科学の成立で作用因への中核化(他は原因ではないという議論)が起きたり、カントによって目的因が再考されてたりしたようです。しかしながら、人間が「理解した」と納得するパターンとしては、アリストテレスの四原因で網羅できるのではないかと思います。

まとめ

「理解」とは、「原因はこれである」という「信念」でした。

また、「理解」状態になるために、人が納得する「原因」は4種類ありました。
(1)質料因     ・・・ 構成要素が分かったとき
(2)始動因(作用因)・・・ 成り立ちが分かったとき
(3)形相因     ・・・ 統合イメージを獲得したとき
(4)目的因     ・・・ 目的(動機)が分かったとき

したがって、DIKWピラミッドで「知識」層から「理解」層へ至るには、体系化した知識から、四原因のいずれか或いは全てが得られることが必要だと考えられます。そうでなければ、知識は知識のまま終わってしまうことになるでしょう。

参考文献:
アリストテレス「形而上学(上)」
アリストテレス「形而上学(下)」


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