雑記|神様であり、食料でもある動物
2月12日、東京の西荻窪にあるクラフトショップ「もりのこと」さんにお声がけいただき、クマについて話す機会をいただきました。
たいへんありがたいことに、80人近い参加者にご参加いただきました。イベントは終了してますが、事前に頂いた質問の回答を公開してます。当日拾いきれなかった質問にもお答えしていますので、参加して頂いた方もそうでない方も、ぜひお読みください。
オンライン配信の難しさを感じました
なんとか無事に終わったんですが、オンライン配信の難しさを痛感。あまり緊張しないタイプのつもりだったんですが、動画のアーカイブをみると顔がこわばっています。「えーっと。。。」ばっかり言ってました。
こういうチャンスがあるたび、学者ではない自分の立ち位置から他者に伝えられることってなんだろう?と、毎回もやもやします。「理想はこうです」で終わらないで、聞いてくれた人の生活との接続がちゃんとあるように。その人の考えや行動に、何かが響くように。と思ってます。
思ってはいるんですが、毎回うまくいきません。
今回は特に、参加者の半数以上が首都圏在住者でした。事前に質問を受け付けたんですが、問いかけの中で最も多かったのが、「人とクマが共存するために、都市に住む私たちにできることは何ですか?」というもの。ここにちゃんと返せるものが無いと!と思って当日まであれこれ考えてたのですが、あんまり具体的には答えられなかったです。
両義的(アンビバレント)な生き物
※ここから書くことは、今回聞いてくださった方がこれに当てはまらなかったからこそ言えることです。決して参加者への批判ではありません。
何か特定の生き物に対して様々な議論が取り交わされる時、対象からの距離が遠い程、その生き物を神聖視する傾向にあるそうです。捕鯨の問題でいう“スーパーホエール”の状態。
人とクマの関係って、まさにこれだと思います。
環境保護のシンボルとしてクマの「神格化」が進むほど、クマが暮らしやすい森を作るために、人の不可侵な領域を作る。という考えに行きつきやすい。けど、旧石器時代から続いてきた人とクマの関係性はこれとはちょっと違っていて、もうちょっと両義的(アンビバレント)なんです。
山の神様であり、食料でもある。
畏敬の対象だけど、どこか愛着が湧く生き物でもある。
霊獣である一方、害獣という扱いで駆除される。
有名人でいうと、宮沢賢治あたりがこのあたりの関係性を上手に拾った童話を発表しています。「なめとこ山の熊」とか「氷河鼠の毛皮」とか。自分の身近でも、尊敬できる猟師さんほど、一人の人格の中にこのあたりの感情が同居していて、そのバランスがよかったりする。
自分には猟師の経験はありませんが、研究者として、特に、人里に近い環境に適応して生きる生き物を対象としていた身であるので、このアンビバレントな関係性の方が納得感があります。もっといえば、「なぜクマに興味をを持ったの?」という問いへの応えもここが大きい気がします。
人との間で、ここまで両義的な立ち位置をとれる生き物って他にいないと思うんですよ。これまではどちらかというと「森の中でどんな生活をしているのか?」というところに興味があって、今もそれは変わらないんですが、「なにゆえに、こんなにも相反する関係性が成り立つのか?」「クマは人間にとってどういう存在なのか?」。
今は、ここへの興味が凄いです。
不思議でしょうがなくて、興味が尽きない。
ちゃんと畏れながら、それでも触れてみる
それから、
「都市に住む人たちが、クマに対してできることは何か?」
今回ここにちゃんと答えられなかったので、これは自分への宿題にします。
端的に言えば、「きちんと畏れながらも、対象に触れてみる」ということだと思っていますが、それだけではやや受動的な気もします。人とクマの関係性を変えていくために、森やまわりの環境に対してどんな働きかけをしていくといいのか?ということを具体的に伝えられるようにします。
イベントを通して、そんなことに気づかせてもらいました。
新たにリサーチしてみたいこともできました。
モヤモヤは残りますが、やってみて本当によかったです。
「もりのこと」さん、どうもありがとうございました!
コロナが落ち着いたら東京に遊びにいきますね。
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