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物語の主人公は、構造的に救済されている。

yukiです、最近暑い日が続きますね。

この頃ようやくちまちまと読んでいた村上春樹さんの『街とその不確かな壁』を読み終えました。私は前々から積読が酷くて、「これちょっと興味あるかも!」と思った本は構わずAmazonでポチってしまいます。その上、一時期に一つの本に集中するのではなく、その折その折に興味のある本をさまざまつまみ食い的に読んでいくために、一つの本の進みは否応なく遅くなってしまいます。それでもやはり、村上春樹さんの本には惹き込まれてしまいますね、後半一気に頁をめくる度が増して終わりに至りました。

村上春樹さんらしい、現実とそうでないものの融合、それもごく自然で境界が曖昧に溶け合った融合を、素晴らしい筆致で描いているなぁと感じています。続きが気になる…! というのもいつも通りでしょうか。果たして主人公はこの後どのような運命にあるのか…

物語の主人公は、「救われている」

ところで本作の主人公も、人生を生きる中でもの悲しさを抱えており、「街」への回帰を願いながらそれが果たされない悲痛さが描かれています。そのストーリー自体はすっと入り込める見事な筆致ですが、読了後ふと思ったこととして、「でも主人公は羨ましいよな…」という感情が胸中に去来したのです。なぜといえば、主人公は物語を通して、(特に村上春樹作品ならなおのこと)数多くの読者に自身のストーリーを開示しており、自分の感情は数多の読者に感受され、どのような形であっても受け止められている…それって、とても「救われている」ことだと思うのです。この悲しみを、ひとりで抱えるのではなく、それを共有して分かち持ってくれる人がいる。物語の主人公はそういう意味で、まさに物語という構造上、救済された存在であるなぁと感じたのです。
翻って、リアルの人生はどうか。こと私が今現に抱えているこの「悲しさ」は、物語の主人公がオープンにしているようには他者に対して共有されていない…私は人生の中で、物語の主人公ほどの関係(自分の内奥を受け止めてくれるほどの人間関係)を得ないまま、人生の終局に至ってぽっくりと棺桶に入るかもしれない…そう思うと、「あれ、物語の主人公ってなんか羨ましくね?」とさえ思ってしまうのです。リアルの人間は、そうはいかない場合がある(いや、私のように人間関係が概して平坦で、強いつながりをほぼ持たない人間の方が珍しいのかもしれませんが…)。そう思うと、物語の主人公や彼がその只中にあるプロットに、どうも移入し切れないというか、ページをめくるたびに私の現実の没交渉的悲しさが立ち現れて物語への没入を妨げるような心持ちになるのです。

「語られなかった物語」

さらに考えを進めてみると、私は「語られた物語(told story)」ではなく、誰からも秘匿にされ、隠されたまま存在を失った「語られなかった物語(untold story)」にこそ、価値(?)があるようにさえ思いました。語られた物語は、語られているだけマシじゃないか。語られなかった、語ることさえ叶わなかったストーリー…それこそが真に人間的に価値のある重要な言葉である……
しかし、語られなかった物語は、語られないからこそ価値を持っているのであって、「表現する」ことこそとんでもない暴挙かもしれない。私の今の感情としては、語られた物語における救済に「安住」する主人公への復讐(?)として、語られなかった物語を「語りたい」という矛盾した思いを持っているのですが、それは平たく言えば、自分の今のこのもの悲しさは、まだ誰とも分かち合えていないぞ! 分かち合いたいぞ!という嫉妬心のような存在要求のようにも感じています。とはいえその物語も、エクリチュールに仕立て上げられれば同じくtold storyになるわけですから、「結局は悲しさを裡に秘めた状態」という苦しさだけが芸術的なのかもしれません。
ヒーローやヒロインが登場する物語で、主人公は時として誰からも気づかれることなく大衆を庇い孤独に死を遂げる…というシーンがあったりしますが、その物語の内部ではそれはまさにuntold storyであるものの、物語を読んでいる私たち外部から見れば、それは立派なtold story。では現実において、私はuntold story的な犠牲を自ら引き受けるか? …私には残念ながらそんな勇気は持ち合わせていません。自らの心情や消息が「語られること」「共有されること」への抗しがたい欲望があるのです。

私は本当に小説を書きたいのか?

ところで、この「語られることへの欲望」というのは、身も蓋もなく言えば、社会的欲求や承認欲求に類するものなのでしょう。人生の目的として「自分の死後も語り継がれているような存在になりたい」という功名心に代表されるものです。SNSは自ら語るためのツールとして大きな利便性を持っていますが、一方で「いいね」といった反応がない時に「共有されていない」状態を見える化することにも役立ってしまっています。肥大する欲望は、虚像のストーリーを共有しようとする向きや、人口に膾炙するためには悪辣な表現も厭わない向きも助長しているようにも思います。
今の私は自分で小説を書き上げたこともない素人ですが、「小説を書きたい」という欲求は、こと私の中では「自己表現」の延長線上にあります。だから、自分の文脈を大きく離れて小説を構想することへの難しさも感じているのですが、どうしようもない、自分の感情を共有したい…!という欲求の先に小説があるイメージです。それは今は共有されていないからこそ「共有したい」と思っているわけですが、共有した瞬間に自分の手を滑り落ちて、三人称の言葉に転化するようにも思っています………堂々巡りになったところで、ひとまず筆を止めることにします。


…ちなみにですが、私のnoteはこれが初めての記事です。
私はちょっと前まで東大で哲学をやっていて、今は教育関係の企業で仕事をしています。それらに限らず、文学やら社会課題やら、色々と関心の向くものはあるので、こうして表現の場を持ってみようと思ったところです。
気ままに考えたことを書こうと思っているので、支離滅裂なものも多いと思います。「そんなことを考えてるんだぁ」ぐらいに思って、気晴らしに読んでいただくくらいが丁度良いと思います。週一くらいでは書こうかなと思っていますので、よければお付き合いくださいませ。


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