ゆうき

哲学、思想、社会などについて考えたことを書き溜めておく場としてつくりました。愛媛出身。…

ゆうき

哲学、思想、社会などについて考えたことを書き溜めておく場としてつくりました。愛媛出身。東大文学部哲学専修卒。今は教育関係の企業で働いています。

最近の記事

「ていねいな暮らし」ができなかった過去と、それを目指している今 — 「生き方」考

yukiです。前回の投稿から、かなり時間が空いてしまいました。 私のTwitterではそのワケを呟いていましたが、本来次のnote記事は、前回のデリダに関する記事に続けて同じ哲学を論じた記事にしたいと思い、永井均さんの哲学の所説(〈私〉論)に対する自分なりの批判を書き連ねようと思っていました… が、積読の中にあった永井さんのご著書を読むにつけ、その一頁一頁が納得のできないものであり、頁をめくるたびに良書からは感じられるはずの驚嘆や畏敬を覚えることができず、ご本を開くことが

    • 「倫理学って、無理なんじゃない?」 −ジャック・デリダをヒントに考えてみる

      yukiです。 これを書いているのは2023年のお盆休みの時期ですが、私はどこに行くということもなく、仕事を家でこなしつつ、あてもなく本を読んだり、こうやって文筆をしたりと、とりとめもない日常を過ごしています。 さて、今回書きたいのは「倫理学の可能性」、あるいは「不可能性」について。私が初めて「倫理学」というものに触れたのは、たしか中学生の時。当時刊行されたばかりのマイケル・サンデルのJUSTICEを書店で買い求め、慣れない洋書を辞書を片手に読み進めていった思い出があります

      • 物語の主人公は、構造的に救済されている。

        yukiです、最近暑い日が続きますね。 この頃ようやくちまちまと読んでいた村上春樹さんの『街とその不確かな壁』を読み終えました。私は前々から積読が酷くて、「これちょっと興味あるかも!」と思った本は構わずAmazonでポチってしまいます。その上、一時期に一つの本に集中するのではなく、その折その折に興味のある本をさまざまつまみ食い的に読んでいくために、一つの本の進みは否応なく遅くなってしまいます。それでもやはり、村上春樹さんの本には惹き込まれてしまいますね、後半一気に頁をめくる

      「ていねいな暮らし」ができなかった過去と、それを目指している今 — 「生き方」考