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「倫理学って、無理なんじゃない?」 −ジャック・デリダをヒントに考えてみる

yukiです。
これを書いているのは2023年のお盆休みの時期ですが、私はどこに行くということもなく、仕事を家でこなしつつ、あてもなく本を読んだり、こうやって文筆をしたりと、とりとめもない日常を過ごしています。

さて、今回書きたいのは「倫理学の可能性」、あるいは「不可能性」について。私が初めて「倫理学」というものに触れたのは、たしか中学生の時。当時刊行されたばかりのマイケル・サンデルのJUSTICEを書店で買い求め、慣れない洋書を辞書を片手に読み進めていった思い出があります。

倫理学って、無理なんじゃない?

和辻哲郎は、倫理的判断や評価とはどういうことであるかは「既知量として倫理学に与えられているのではなく、まさに倫理学において根本的に解かるべき問題」(『人間の学としての倫理学』)であると述べています。私もそれなりには色々な倫理学に関する所説、「これが倫理的判断の基準である!」というものに触れてきましたが、どうしても「これは十分に物事の善悪を定めることができているな!」と思えるものに、私自身得心できるものに、辿り着くことができていません。そりゃそうだ、もし最終的な解がすでにあるなら、倫理学の営みには終止符が打たれているはずだと思われるかもしれませんが、私は管見として、「倫理学には構造的なアポリアがあるのではないか」と思ってしまっているのです。

ベンサムやミルは概ね、功利主義的思考こそが道徳的価値判断の唯一の基準であると考えていたようですが、少し考えればわかる(直観される)ように、それだけではなんとも解決のしようのない問題が出てくる。一方で、掛け値なしで格率の普遍化を求めるカント的発想も、個々の、目の前の、危機的な状況に立ち至った人間にとっては言葉遊びに過ぎない。ムーアは「善は定義できない」と言い、ロールズは「単一の善をすべての市民に押し付けるべきではない」と言った。「一体全体『善』とは何なのか?」という根本的な問いについては、なんともさまざまな見解の百家争鳴状態で、どうにも袋小路であるように思われてならないのです。

デリダとの出会い ーすべてに「暴力」は潜んでいる

そんな時、私がふと読んでいたのが、ジャック・デリダでした。彼の哲学は、倫理的判断に関する私の考え方に、大きな影響を与えています。デリダが、プラトン以来の形而上学の枠組みを批判する中で語っているのは、階層的に秩序付けられている二項対立のものAとBについて、優位に立つAの特権化のためにBを"外部"へと排除する(自分/他者、精神/物質など)…という形而上学の性格です。しかし、本当にそれで良いのだろうか?と。デリダはたとえば「プラトンのパルマケイアー」で、『パイドロス』を引きながら、ソクラテスがエクリチュールに対するパロールの優越を語りつつも、実はそのパロールの内部にエクリチュールが潜在していることを巧みに説明していますが、この「原エクリチュール」「原暴力」という発想こそ、倫理学のアポリアを上手く説明しているのではないか…と思っているのです。

人は倫理的判断において、何かを言葉にし、言い表し、区別し、どちらが優越しているかを言表し、何らかの枠組みを言語化する…そこまで高尚なことを考えなくても、人はさまざまな価値判断において、言語による(あるいは言語的な)解決を図ろうとします。しかしながら、何かを判断する、言い表そうとする、まさにその瞬間に、「原エクリチュール」「原暴力」がすでに発生してしまっている。恐れずにパラフレーズして言うなら、何かを名指し、言葉にした時点で、それは「そうではない」という他なるものを踏み倒し、暴力的な一撃によって何かを規定してしまっている。だからこそ、言葉にした時点で「例外」は生じ得るし、外側に排除されたものに対してわれわれは一時的に"責任"を放棄してしまっている……

もちろんここで述べていることはかなり抽象度の高いことではありますが、あながち的外れでもないかな?というのが今の私の見方です。人が何か善悪について判断しようとしたり、善い行いについて(言語的に)考えようとすると、何らかの人間(集団)や行為を言葉として規定し、積み重ねていきます。「これは、これこれだよね!」と言った瞬間に、「排除」してしまっているものがあるのです。どのような言説も、内に秘めた暴力を取り去ることはできない。デリダは実際、立法という行為も「行為遂行的暴力」「解釈の暴力」であると言い(『法の力』)、自然から存在したものと誤魔化される、権利を有した「人民」というものは事後的に創造されたものであるという消息を論じています。そういった形而上学による「暴力の隠蔽」、「これが正しいよね!」という形而上学の魔力は、なかなか厄介なものかもしれません。

実際、名づけるという第一の暴力が存在したのである。名づけること、場合によっては口に出すのが禁止されるかもしれない名前を与えること、これが言語の根源的暴力であって、これは絶対的な呼びかけ符号を差異のなかに書き込み、宙づりにする……第二の暴力は修復的、防御的なものであり、「道徳」を設定し、エクリチュールの隠蔽を命じ、すでに固有なものを引き裂いていたいわゆる固有名の抹消と抹殺を命ずる。原暴力から第三の暴力が、悪、いさかい、秘密の暴露、レイプなどと呼ばれるものとして、場合によって出現したりしなかったりする(経験的可能性)

デリダ『グラマトロジーについて』

それでも、「倫理の可能性」はある。

では、すべての言説に「暴力」が潜んでいるというなら、われわれはいかようにして倫理的であり得るのか?という問いが当然立ち上がってきます。これについても、デリダは真っ向から回答しています。すべての言説の価値や序列が宙吊りにされるからといって、それは責任を放棄してよいということにはならない。どう決着をさせるにしても、われわれは何かを疎外してしまう。しかしながら、われわれは時として「決着」させることを迫られる。だからわれわれは、その状況に最大限向き合い、個別性を最大限認識し、いわば「最小限の悪」で持って決着をみなければならない…これこそが、責任の果たし方である。

なんともスッキリしない結論に聞こえるかもしれないが、これはたしかにそうであると、言い得て妙であると思っています。どのように配慮をしたところで、排除は生まれる。であれば、実現すべき「正義」とは、倫理を放棄することでも、画一的な基準(=永遠に何かを排除し続けているルール)を当てはめ続けるのでもなく、その個別性を、それそのものをよくよく斟酌して、やむにやまれぬ決断をすること…そうすることこそが、「倫理の可能性」なのではないかと思っているのです。

言語はみずからのうちに戦いを認め、これを実践することによって際限なく正義のほうへ向かっていくほかない。それは暴力に対抗する暴力である……光が暴力のエレメントなら、最悪の暴力、つまり言説に先行し言説を抑圧する沈黙と夜の暴力を避けるために、ある別の光をもってこの光と戦わなければならない。

デリダ「暴力と形而上学」

そうであるならば、「倫理」について何か画一的な規定を設けようとすることは、そもそも構造的に無理な話なのではないのか…? 倫理学を"脱構築"し切ることなど、到底私の手に負えるものではありませんが、この愚かしき浅はかな知恵を駆動させてみて、まだまだ考えを進めてみようと思っています。

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