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コロナが露わにした、『テレワーク出来る村の住人』と『出来ない村の住人』の分断

先日のLINEと厚労省が実施した調査で、テレワーク実施率5%と言う数字が出ました。LINEという手軽な媒体を使ったことで、『この手の調査に参加する人はそもそもIT親和性が高い』という偏りは、スマホ回答ではあるものの、比較的弱いですし、おそらく、これに回答していない人(LINEをやっていない人)を加えると、実態のテレワーク率はもっと低く出ると予想されます。

5%は正規分布だと偏差値66ぐらいに相当するので、だいたい、いわゆる難関4大卒ホワイトカラーの人口とほぼ一致しているのではないでしょうか。


マスメディアなどで、盛んにテレワーク実施が叫ばれており、『テレワークが出来なければ非国民』のような論調も垣間見えます。例えば、ある有名なサッカー選手が『テレワークをさせてもらえない会社には未来がない』という発言をTwitterでしていました。


もちろん、テレワークが出来るのに精神論的な「顔を合わせたコミュニケーションが大事」とか、あるいは惰性の慣習で「この書類にはデジタルでなくアナログの朱肉判子がいるから」というような理由であれば、テレワークさせないことの批判も分ります。


ただ、今社会を支えている医療関係者、患者に寄り添いケアをしてくれている方、また、この不足マスクの増産ラインに入っている方、そのマスクを全国各地へ運送する方、このような仕事にも、テレワークでなければ、未来がないのでしょうか。


もちろん、理想論としては「だから産業ロボットを入れなきゃダメなんだ」「早くドローンや自動運転車を導入」みたいなことかもしれませんし、近未来まで視点を移せば、産業の仕組みが変わるかもしれません。しかし、それは2020年現在の日本の実態を見た話ではありません。


私たちの発酵業界もそうです。米や麦、豆の作付けや収穫、原料を蒸し、麹の様子を見ながら麹を作り、温度など環境管理をして商品を作り、瓶詰め箱詰めして発送する。すべてAIの自動判断や、産業ロボットのテレワークで出来れば良いですが、それはまだまだ遠い先の話でしょう。


AIやロボットに代替が難しい仕事として、『ゴミの分別』があるそうです。自動レジなどが進むUNIQLOの店舗。UNIQLOの仕事を分析したとき、実はデザイナーの方が『流行を分析してデザインを作るAI』に駆逐される可能性があったりするなかで、ロボット導入が出来ない、一番最後の仕事は『お客さんが手に取って棚に置き直した服を、畳んで適切な棚に納め直す仕事』だと言う話を聞いたことがあります。


そして、実は、世の中の多くは、そういう『ロボットに(物理で)出来ない仕事』で構成されているのではないでしょうか。


もちろん、発言したサッカー選手も悪気はないと思います。Twitterということで、強い言葉になったとも思います。実際、『そもそも、テレワークが出来るのに出来ない人を対象にした発言』のつもりだったとは思います。


でも、怖いのは、その『つもり』裏に、『テレワークが出来る社会の住人』と『テレワークが出来ない社会の住人』が、互いに直感的な想像の範囲に入っていないから配慮が出来ないんじゃないか、ということです。もし、想像出来ていたとしたら、いわゆる『主語が大きい』言い方にはならなかったんじゃないかと思います。


そう、いわゆる『社会の分断』です。最初に学歴の話をしたのは、凄くいやらしいとは思います。ただ、SNS等を見る限り、おそらく『テレワークが出来る村の住人』は、『都市出身、中学受験からの4大卒、ホワイトカラー』で、『テレワークが出来ない村の住人』は、『地方出身、公立、ブルーカラー』というざっくりした分け方は、ある程度成立すると思います。


こう書くと、昔からある、資本家労働者の社会分断みたいな話になってきますが、それが同じ地区に住んでいて、同じ建物で働いている人同士、普段は見えているのに見えていない。『テレワークが出来る村の住人』も『テレワークが出来ない村の住人』も、一緒になって社会を支えてることを意識していない。


テレワークが導入されている会社の人の目に、自分の会社のビルで確かに存在しているビル清掃作業員の姿は、普段から入っているのでしょうか。


『緊急事態宣言なのに出歩いている人がいる』『テレワークが出来ない会社なんてブラック企業だ』と思う前に、その人は『テレワーク出来ない社会を支える仕事』をしているかもしれないと思うには、想像力や共感性がいる。


その想像力や共感性を持つことが、社会分断で難しい社会になってしまう。それが『テレワーク』が踏み絵になって、より一層進んでしまうのではないかと危惧しています。そして、どっちが上とか下じゃなくて、やはり今の社会はこの両方が車軸の両輪なのではないでしょうか。


ZOZOスーツの失敗は、端的に言えば、『テレワークが出来る村の住人』の企画が、『テレワークが出来ない村』の現場を理解したモノではなかったと言うことだと思っています。

「これまでのキャリアの中で、コンビニのプライベートブランドや、自動車メーカーと話をしてきて、メーカーって鈍臭いなと思っていた部分がありました。彼らは、今ぐらい(11月)で来年の春ぐらいのことを話しているじゃないですか。半年以上先となると、どんな世の中になってるかわからないのになぁと思っていたんです。それこそ意識高いビジネスパーソン風に言うと『利益率も低いのに、鈍臭い、頭が固い、時代遅れ』という感じ。でも、今こうして実際にものづくりに携わってみると、それだけ時間がかかってしまう必然性があるんだと痛感しています」

このコメントが全てだと思います。


今、「ものづくり」から「ことづくり」へ、と言われています。それは大量生産大量消費からの脱皮であり、一品モノ、個性的な商品、顔の見える商品の少量多品種生産で高付加価値の指向であり、いわゆるマーケッターはそれをあおっています。


ただ、その指向を目指せば目指すほど、当面は『テレワーク出来ない仕事』に依存しなければいけない。日本酒だって、何万本単位を生産すれば、コスト的に各工程でロボットの遠隔操作みたいなことかもしれない。でも、「原料に拘り、技術を極めた一本」というのは、現状では『テレワーク出来ない仕事』ばかりの生産配送工程です。もちろん、その中でも現時点で安価なAIやロボットでやれることは少しはあるかもしれませんが、受発注の効率化みたいな間接部門に限定的な動きだと思います。


そもそも論、『AIやロボットに置き換えてテレワークで作った発酵食品』って、仮にそういう『製品』が出来たとして、それって、マーケティング的に価値がある『商品』たりえますか?


この『テレワーク出来る村の住人』と『テレワーク出来ない村の住人』の間で、可視化(こうしてレッテルを貼ることが、私も分断に与しているかもしれません)された分断が、アフターコロナの世界でも、分断とならないように、withコロナの今、頭に置いておきたいと思います。

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