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発酵という『中動態』の営み

今日は、発酵について。

山口周さんと原研哉さんの対談記事の中で『中動態』という言葉が出てきました。

哲学者の國分功一郎さんによると、かつてインド=ヨーロッパ語圏では「中動態」という態が広く使われていたそうです。「中動態(~になる)」は「能動態(~する)」の対立概念として中世ぐらいまで使われ、やがてそこから派生した「受動態(~される)」に取って代わられました。そうなったきっかけは法律です。罪を犯した人を裁かなければいけないときに、意思の主体性というものを厳密に問う必要が出てきたからです。

発酵・醸造はまさにこの「中動態」の表現が多いと感じます。

味噌を造るというと能動的で、味噌の立場に立てば「味噌として作られる」が受動態でしょうか。

しかし、私が種麹の営業の前線にいたときなど、お客様の表現として「味噌になる」「醤油になる」といったような、「~になる」という表現を、自然と用いることが多かったように感じます。

対して、『麹』は「麹を作る」と能動的な表現で語られることが多いように感じています。

おそらくは、自然な感覚として、「麹」は、比較的直接コントロールが可能であり、麹菌に働いてもらうというより、その後の発酵の工程で働いてもらう麹という道具を作る感覚が強かったことが、言語に表れているのかなと思います。

一方、発酵食品を人間が作ることは出来ません。味噌は、麹と、塩と、水と、大豆を混ぜることしか、人間には出来ません。味噌を造るのは、麹菌であり、酵母や乳酸菌達が活動することで、混ぜ合わせた原料が味噌になります。

個人の主体的意思という存在を前提とする近代社会が成立するためには必要なことだったとも言えます。例えば、日本語の「魔がさす」という表現は中動態的ですが、そんな責任の所在がはっきりしないことでは困ると言われるのが近代以降の社会です。ただ、その意思や責任というものは、ほんとうにその人だけのものなのか、と國分さんは問いかけています。

そう、発酵食品づくりには、人間の主体意思だけではできません。「微生物の声を聴く」という表現がありますが、微生物があることによって、「味噌になる」のです。

面白いのは

「味噌を造る(能動態)」「味噌になる(中動態)」「味噌が造られる(受動態)」

どの表現も、成立することです。他の発酵食品に置き換えても成立するでしょう。

例えば、「味噌造りキット」「味噌造り教室」という表現は、かなり能動的に「味噌を造ってみよう!」というニュアンスがありますし、

「これで、床下においておけば、味噌になるから」というような言い方をしているときは、相当にお任せするニュアンスが出ます。

味噌造り教室は、実際には、原料混ぜる部分だけのことが多く、人間が能動的に出来る範囲を取り扱うからこそ、能動的な表現になるのかもしれません。1日の教室が終わって、「それでは数ヶ月後に、容器の中のものが味噌になります」と、ここで中動態に、突然表現が変わったりします。

日頃何気なく使う表現、そこに、発酵に対して人間がどれだけの関与をしているか、それが、表れているように思います。


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