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退職雑記 ご近所編

荒れ果てたワンルームをちまちま片付け、ゴールが見えたころには、退職からおよそ2カ月経っていた。2023年12月30日。この日は一日かけて仕上げをやり切り、終わったころには空はすっかり暗くなっていた。

心身ヘトヘトになった。最寄駅の近くのトリキは徒歩10分はかかる。頑張ったし多少ぜいたくをしてもいいか、と徒歩30秒の個人店の居酒屋に久しぶりに顔を出すことにした。店先に「営業 12/29 30」と張り紙がしてあったから、営業してるのは知っていた。

イエローのテントの庇と、それに掛かった提灯が目印のその店。毎週金土の夜のみ営業。陽気なばあちゃんが無理せずやってて、昔からの常連さんにに愛される店。ここでは、ばあちゃんは「女将」としておく。
僕も数ヶ月に一度という超ローペースで顔を出していた。そのたびに「あんった全然こおへんな〜!顔忘れてもうたわ」とイヤミを言われるのだが。前職では金土も遅くまで働いてたんやから、しゃあないやん。

暮れの挨拶と退職の報告にちょうどいい、と思って引き戸を開ける。

「あら!珍しい人が来たわ〜」といつもの調子。
「この人、龍ちゃんいうてな〜」と周りのお客さんに紹介されるのも恒例だ。

カウンター6席くらいと、4人がけのテーブル2卓という店内は、いつも以上に賑わっていた。「今回そんな久しぶりでもないでしょ〜」とカウンターの椅子を引いたところで

「きょうで最後やねん」
「あー、張り紙見たっすよ、30までやってるんやと思って」
「いや、きょうでぜんぶ最後やねん。店やめんねん」

えっ…!マンガみたいにフリーズしてしまった。
他のお客さんから「なんや、知らんと来たんか!」と言われる。
みんな年末の挨拶に来たんじゃなかったのか。

酔っ払いを愛おしそうな表情で見る女将

とはいえしんみりした雰囲気でもなく、席に着くと、居合わせたお客さんとお互いの身の上話や、出身地の話なんかをして盛り上がる。

この日は女将の長男さんも手伝いに来ていた。

客「えらい寂しくなるなぁ。俺らの止まり木、どないしてくれんねん!」
長「いや〜、でもお袋もここまでようやりましたわ」
客「せやな〜」

人のよさそうな長男さん

そうだよな。コロナ禍がきっかけで閉じたお店もごまんとある。ようやく世の中的にもトンネルを抜ける、というタイミングでの店じまいだ。

それはそうと、「止まり木」っていい言葉だな。
イカツめなおっちゃんから出てくるのもまた面白い。

客「見てみ、オカンが書いたメニュー。立派なもんやで」
長「いや〜、しっかりやってたんやな思いますわ」
壁に貼られたメニューを見渡す表情は、なんともいえない哀愁があった。

女将は以前から「うちらみたいな歳になると、遊べる所がなくなる。デイサービス行ったって、酒は飲めんからな。歳取っても遊びに来れる場所を置いときたい」というようなことを言っていた。

店内は、女将の旦那さんの話題に変わる。

客「お前のオトンな、息子らからしたら、どうしょうもない男やったかもしれん」
長「あの人、外面だけはええねんなぁ」
客「でも、オトンがおったからできた店や」
長「分かりますよ。オトンがしっかり稼いでくれてたから、オカンもここまでのびのびやれた」

すごい日に来てしまったなと思った。
なんやかんや盛り上がり、宴もたけなわ。

僕も帰るか〜と支度するも
「ま〜あと一杯飲んでき!」
と止められる。

45年続いた店の最後の客になってしまった。
少し早いおせちをつまみ、タダ酒をご馳走になり。
後日、この日の写真をLINEで送ったら喜んでくれた。

元々は女将のお兄さんが始められた店だったそうだ。それが、開店から間もなくお兄さんが亡くなり、自分が店を任されることに。驚くことに、当時はお酒は全く飲めず、話も苦手で、ストレスから体調を崩すこともあったそう。
それが今や、というか何十年と街の人気者だ。
人生何があるか分からんなぁ、という月並みな感想だが、本当にそう思ってしまう。

飲みっぷりよ。

近くのお店の灯が消えるのは寂しいことだけれど、80歳超えの大先輩の生き様には、いつも勇気を頂いている。お店を辞めても、店先の庇はそのままにしておいてほしいなぁ。

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