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野方物語

 零子は会社を休む事にした。朝から体調が悪かった。彼女が住んでいる処は西武新宿沿線にある野方という町だ。身体中がだるいので、さっき会社に電話した。最近、会社をよく休む。二年目だというのにだいぶ有給も使ってしまった。お前は仮病を使っている、と上司にも言われてしまって、すこしだけ嫌な気分になったが、ふたたびベッドの上に横たわると忘れた。部屋には猫が一匹いる。真黒な猫だった。風邪薬を買わなければならないと零子は思った。横になっているだけで消えてしまうようなだるさではない。
 窓を開け、外の気温を感じた。もう三月も後半なので、十分にあたたかいはずなのだが、身体の奥から悪寒が湧いているので、体感の温度は低かった。ワンルームマンションであることを差し引いても、ベランダは狭かった。二メートルあるかないかの幅であり、奥行は一メートルあるかないかだった。
 隣の家の庭が、よく見えた。古めかしい家だった。庭の中央にある極楽鳥花の鉢だけが、やけに目立っていた。
 風邪薬をなぜ常備していないのか、特に深い理由はなかった。風邪をひいたことがないわけではない。むしろ、最近はしょっちゅう体調を崩す。薬に頼るのが嫌な性質のなのだが、今日はそれに頼らざろうえなかった。
 外は静かだった。野方という町には駅前に商店街があり、それ以外は普通の住宅地なので当然である。零子が初めてこの町に来た時は夜中だった。社会人として新しく生活する場所を探していた。その時の記憶、どうしてこの町を選んだか、たどり着いたか、といった記憶は何もなかった。
 零子は家を出て駅の近くにある薬局に行った。始めて行く店だった。古い家を改装した薬局で、大きなマスクをした初老の女性が一人店の奥に座っていた。たどり着けた安心感からか、体調がさらに悪化した気がした。女性はぼんやりと零子のよろめきを眺めていたが、このまま倒れると思ったのか、カウンターから出てきて、零子の体を支えた。大丈夫ですよ、とひとこと言いたかったが、零子は口が回らなかった。薬局よりも、病院に行くべきだね、と女性は商売っ気のないことを言った。病院はごめんだった。零子は昔から医者が大嫌いだった。休んでいきな、と言われて、零子はカウンターの隣にあるソファに横になった。店の中は薄暗くて黴臭かった。
 発熱はしているのだろうが、一体何度あるのかわからなかった。革張りのソファに身を沈めていると、だんだんと過去の事が思い出されてきた。一番印象に残っている記憶は、極楽鳥花に水をやっているものだった。確かあれは七つの時だったと思う。南アフリカ原産の花に水をやり、育てる事が生きがいだった。極楽鳥花に水をやっている時が一番生きがいを感じていた。
 本当に病院に行かなくて良いのか、と女主人が聞いてきたが、零子は首を振った。彼女の優しさに甘えたくないという考えが、不意に湧いてきた。
「あんたは、どこから来たの?」
 女主人の質問は零子の心を深く穿った。何気ない質問だったが、零子にはなかなか答えられなかった。
「つらそうね」
 不調が零子の口を重くさせているのだと思ったのか、女主人は零子の額に手を当てる。零子は心配した。もしかしたら、この女主人が無料で薬をくれてしまうのではないかと思ったのだ。もちろん断るつもりだった。女主人の優しさが何故か辛かった。
「大丈夫です」
 零子はそう言って、立ち上がろうとしたが、眩暈がして再び座り込んでしまった。
「救急車でも呼ぶ?」
 病院から一気に救急車と言われたので零子は戸惑った。
「冗談よ」
 女主人の一言が零子を安心させた。再び女主人は零子の額に手をつける。熱が女主人の掌に移動してゆくのが感じられた。かわりに掌の冷たさが零子の額に伝わった。痛みが消えてゆく。全身のだるさも少しだけ回復した。
「あんた、この町の人?」
 いま自分がいる場所がどこなのか、零子は少しだけ冷静になった頭で考えた。今は中野区野方にいる。生まれた場所ではない。ここに来てから、町の人々とは最低限の会話しかしていない。どこで生まれて、どこから来たなどと聞かれたのは、この町に来てから初めての事だった。
「この町に住んでます」
 薬を買って帰るはずだったのに、気がついたら自分の身の上を話していた。大した情報を話したわけではないのだが、恥ずかしかった。
「ここの生まれ?」
 女主人は零子の額から手を離し、店の奥へと引っ込んだ。帰りたかった。こういった扱いを受けるとどうして良いかわからなかった。わからないときは、そこから立ち去るのがいつもの零子だった。
「別の町で生まれたの?」
 女主人は透明のコップに水を入れ、棚から薬をひとつ取り出した。零子は手を振った。女主人も首を振る。
「お金は払ってもらうから」
 無料ではないことはわかったが、こんな扱いをされる事に対する違和感は拭えず、零子は無言で透明のコップを見つめていた。薄暗い店内では、コップの水がやたらと澄んで見えた。
「ちょっと落ち着いてから行きなさい」
 差し出された風邪薬は、総合風邪薬だった。箱の中には、透明のゼリーが詰まったようなカプセルが入っている。
「飲みなさい」
 零子はその前に金を払いたかった。人の好意を素直に受け取れない人と言われた事がある。それがどういう意味なのか、零子には理解できなかった。女主人は、金を払うよりもまず薬を飲みなさいと言った。財布を持つ手が震えた。二千円を取り出し女主人に渡す。まずは飲みなさい、ともう一度だけ女主人は言った。零子は首を振り二千円を差し出す。女主人の表情からは笑顔が消えた。零子の表情は真剣だった。他の人ならこの好意をどう受け取るのか、零子にはわからなかった。自分の行動が、少し変わったものである事は自覚していた。普通の人ならば、礼を言って受け取るのだろうが、零子には出来なかった。女主人は二千円を受け取り、釣りを渡す。零子の手はまだすこし震えていた。三百円ほどの釣りだったが、やたらと重く感じられた。
「いいから飲みなさい」
 女主人に促され零子はコップを手に取った。一気に薬を飲み干す。少し咽た。薬は胃の中へと落ちた。礼は言わなくて良いのだと、零子は思った。金のやり取りをした今、店と客の関係だ。薬が効いてくるまで動けないので、零子はソファに身を沈め、じっと天井を眺めた。きっと女主人は呆れているのだろう、変人と思われたのだろう、と思った。女主人は零子の側に来て様子を見ている。零子は辛かった。どうして自分を放っておいてくれないのか、と思った。
「良くなったら、出ていきます」
 零子は女主人の顔を見れず、顔を背けた。礼を言いたかったが、昔からの考えはそう簡単に変えられるものではない。人の情けというものを憎んでいるわけでも、嫌いなわけでもないが、自分から遠い処にあるものだと思っていた。
「どこから来たの?」
 女主人は質問した。零子は自分が珍しい生き物だと思おうとした。そうすると不思議と気分が落ち着いた。この習慣を身に着けたのは、いつからなのかと考えると、極楽鳥花に水をやっていたあの頃を思い出してしまう。
「新宿」
 思わず出た。自分の言葉に零子自身が驚かされた。昔の事を考えていたので、言葉が不意に漏れたのだと考えた。零子は頬を赤らめたが、熱で顔が既に紅潮していたので、はじらいを悟られる事はなかった。自分の出身地を言う事が苦手だった。今でもそうだ。零子は二十二まで、新宿の家にいた。仲の良かった義理の姉は零子が十歳の時に家を出て行った。未だに行方がわからないし、出ていった理由もわからない。
「あなたはどこの生まれなんですか?」
 零子は逆に女主人に対して質問していた。女主人は少し驚いた後、零子の額に手を当てた。
「ここの生まれじゃない」
 陽の光が薬局の表通りを照らしている。人通りはない。その様子を零子は眺めている。時間の流れが一定ではないと感じているのは熱のせいなのか、風景のせいなのか、零子には判断できなかった。
「誰も来ませんね」
 口が滑らかになってきたという自覚が零子にはあった。どこかに飛んでいきたいと思った事はあるか、と昔誰かに聞かれた事を思い出した。意識が薄れると、つい過去を思い出してしまう。
「まだ、あんたが来てから、一時間ぐらいでしょ」
 女主人が言った。一時間も人が来なくて、この店は大丈夫なのかと零子は思った。
「私もね。別のところに住んでいた」
 女主人はコップを片付けながら言った。
「二十歳ぐらいのとき、ここに引っ越してきた」
 自分と零子は、似ているのだと言いたかったのかと零子は考え、少し身構える。そういえば女主人の顔も自分に似ている気がする。共感する事もされる事も零子は苦手だった。柔らかくなりかけた表情が再び強張った事に気づき、女主人は言葉に慎重になった。
「もう少ししたら、楽になると思うよ」
「もう、だいぶ楽になってきました」
 正直、居心地が悪かった。動けるようになったら、早くここから離れたかった。決して女主人の事が嫌いではないのだが、いるだけで全身から汗が出るほど、ここに自分はそぐわないと零子は感じた。
「ねえ、もしよかったら…」
 女主人の態度に変化が見られた。どうして、これ程よそよそしくされるのか、理解できないようだった。女主人の態度の変化を察して、零子はますます頑なになる。
「なんです?」
「もう少し休んでいってもいいのよ」
「いえ、行きますよ」
 零子はそれが自分の行う事の出来る、唯一正しい行動だと思っていた。心はなるべく開かない方が、面倒事に巻き込まれないで済む。横たえた体を起こそうと思ったが、予想よりも重かった。眩暈もする。薬が効きすぎてしまったようだと思い、再びソファに身を横たえた。開かないようにと努めていた心が、徐々に開いているのは薬と体調のせいだと思いたかった。
「まだ休んだ方がよさそうね」
 永遠にこの薬屋から出れないのではと不安になるほど、零子の意識は混濁していた。余計な事を言いそうで怖かった。もし、親しげに言葉をかけられたら、自分でも思いつかなかった反応をしてしまうかもしれない。
「あんたこの町のどこに住んでいるの?」
 零子はその質問に答えたくなかった。この町に住んでいる事を伝えれば、それで十分だと思っていた。この町のどこに自分がいるか、など伝えたくはなかった。
「答えなきゃダメですか?」
「もしあんたがこのまま倒れたら、そこに連れていかなきゃ」
 女主人の言葉は、零子にとっては恐怖を覚えさせるものだった。もしかしたら、このまま起き上がれなくなるのではと不安になる。体調が悪くなると、あらゆる事に対して自信がなくなる。人に対する接し方には元々自信がなかったが、さらに不安になった。
「私にも娘がいて……」
 零子は顔を上げた。女主人が身の上話を始めた事に恐怖すら感じた。左手を宙に漂わせ、それ以上話さないように伝えたつもりだったが、伝わらず、女主人は話をつづけた。
「あんたと同じくらいの娘が……」
 零子は女主人が心を開いたら、同じぐらい自分も心を開かなければ申し訳ないと思った。そんな事をする義理はないのだが、そうしなければならないと思った。
「ちょっと、やめてくれます?」
 もうこれ以上、心に踏み込んでほしくなかった。
「何を?」
 女主人は目を瞬かせながら、零子を見つめていた。
「すいません、少し……」
 零子は体を捻らせ、女主人の顔を見ないようにした。捻じれていると自分でも思う。自分でもどうしようもなかった。今までも、ずっとこうだった。優しくされると、どうしてよいかわからず、こんな反応をしてしまう。全ては子供時代にあるだろうと、心理学者なら言うだろうが、そんな事はわかりきったことなのだ。どうする事も出来ない。今から子供時代に戻るなど不可能だ。培われた反応。それは零子の頭の奥深くに張り付き心がゆるむと浮上する。厄介なものだが、いまさら、どうこうしようという気はない。
「あんた、どんな子供だったのかねえ」
 女主人が言った。零子は自分も変わっていると思ったが、この女主人も相当変わっていると思った。どうしてここまで人の心に踏み込んでくるのかわからなかった。だから、少しだけ勇気を出して自分を語ってもよいかと思えてしまう。
「しゃべりすぎ?」
 女主人には、自分でも踏み込みすぎであるという自覚があるようだ。零子の朦朧とした意識でも女主人の戸惑いは理解できる。
「娘さんがいらっしゃる……の?」
 それが理由であると考えた。女主人は零子と娘を重ねているのかではないかと思ったのだ。それならば納得がいく。誰でもない入物になった気がする。零子には心地よかった。自分などその程度の扱いで良いと思った。
「いるけど」
「今はどこに?」
「どっかに行っちゃった」
 自分がその娘に似ているのか、零子は聞いてみた。自分自身を娘に重ねているのか、という質問を本当はしたかったが、心の奥にしまっておいた。あまりにも、今の自分には生々しい言葉だと思えたのだ。予想に反して、女主人は首を振る。少しもあんたは娘に似ていないと言うのだ。女主人の顔には、少しの微笑みが浮かんでいた。どうして、似てもいない自分に対して思い入れが発生したのか理解できなかった。
「そんなに似てないんですか?」
「似てないよ」
 女主人は店の外を眺めた。遠い処に行ってしまった娘の幻影を追うように、目で軒先の猫を追う。
「猫みたいに、どっかに行っちゃった」
 動物を飼ったことはあるが、零子には子供はいない。人間を動物に例えるのは、何だが気味が悪かったが、本質的には同じ事なのだろう。育てた、と思ったら、どこかへ消えてしまう。女主人にとっては、娘がそういった存在なのだろう。女主人も零子もこの土地の生まれではない。遠くから来てまたどこかへ行ってしまう。零子には不思議だった。どうして、離れた土地で生まれた人たちと話が通じるのだろうか。自分が女主人の娘に似ていないのに、思い入れされている事と同じぐらい不思議だった。
 時間は午前十時だった。今頃、零子の会社では仕事が始まっているだろう。
 会社の机は綺麗なものだ。デスクトップの黒いパソコンが一台あるだけで埃ひとつない。帰る時に私物を残してはならない。零子がいなくても業務は問題なく進む。もう慣れた。自分が無価値なものになった気分になったのは、最初だけだ。今ではもうどうでもよい事だ。大きな時間の流れは自分とは無関係に進んでいく。そこに一体化する事はないのだろうという考えは、子供の時から零子の中にあった。あの極楽鳥花に水をやり、肥料をやっているときに悟った事だ。女主人も同じ事を考えているのだと零子は思った。猫が多く住み、電車の音が時々聴こえるこの路地で、時間の流れとは切り離された場所に生きている。申し訳ない事だと思ったが、娘に去られ、一人暮らしをしているというこの女主人からは、時間の本流と共に生きている、という充足感が感じられなかった。
「もう行きますよ」
 だいぶ気分が良くなっていた。それはもう、ふわふわと飛んで家まで帰れるぐらいだ。薬というものは素晴らしい反面、極端なものだなと思い知らされた。過程がなく、長い時間をかけず、直接的に効果のみを体にもたらす。
「じゃあ、元気で」
 奇妙なやりとりを通じて、零子の心の奥に温くて得体の知れない感情が生じた。それをよいものとする価値基準が零子の中にはなかった。女主人もそれは同じらしく、このやりとりで、少しばかり心が迷走したと感じているようだ。不思議なもので、互いにそうした気まずい感情を抱いてしまった時、何も言わずに立ち去る場合がほとんどだが、余計な一言を言いたくなる場合もある。零子は少しの罪悪感を抱いていた。女主人が心に踏み込んで来たのに、何も語らなかった事が心残りだった。子供時代の事、それを少しぐらいなら語って良いかもと考えてしまう。
「どんな子供だったか聞きたいですか?」
 零子の言葉を受け、女主人は顔を上げる。すこしばかり踏み込みすぎたと思ったのだろうか、曖昧な笑みを浮かべ、無理をしなくても良い、という態度をとった。
「話したくないんじゃなかったの?」
 零子はどういった表情を作ったら、女主人に自分の気持ちを伝えられるのかと考えた。何も思いつかなかった。すっきりとしない表情を作ったところで、何も伝わらなかった。
「変わった子供でしたよ」
 昔から変わっている事を理解してもらえれば、今までの奇妙な態度も納得してもらえると思った。女主人はレジ奥の椅子に座り、零子の話を聞く姿勢になった。
「極楽鳥花が好きで、毎日水をやっていた」
「それって、そんなに変わってる?」
 驚いたわけではななかった。女主人は零子の子供時代に対して、ごくありふれた反応を示した。零子とすれば脈拍が上がり、呼吸が苦しくなる程の勇気を振り絞らなければならなかったので、拍子抜けと言って良い反応だった。
「あんた、極楽鳥花が好きなの?」
 否定はしなかった。零子は無言だった。いま語ると、言葉がとめどなく出てしまう。あの鮮やかなオレンジ色は心を解きほぐす効果がある。
「私も、庭で育てているよ」
 零子はソファから立ち上がった。自分のマンション名を言うと、女主人はその隣の家に住んでいると零子に告げた。
「へえ、お隣さんなんだ。あんたなんて、一度も見た事がなかったけど……」
 あんたは何処にいたの、と女主人に聞かれ、零子は自分は何処にいたのだろうと思った。
「何かあったら、遊びにきなよ」
 それは零子が恐れていた言葉である。切り離された存在である事は心地よくもあった。断りたかったが、自分の選択に疑問があった。今まで生きてきた中で下してきた判断に対する疑問が、いまの零子の中にはあった。今より、もっとひどい事になるかもしれない、という可能性もあったが、まだ生き方を変える事が出来るかもしれないと思えた。
 女主人も、社交辞令のつもりだったのだろう。言い終えると零子に背を向け、奥に引っ込もうとした。
「いいですか?」
 女主人の背に、零子は言葉をかけたが、その次の言葉は考えていなかった。
「いいって何が?」
「花を見に行っても」
 毎日、盗み見る事は出来ていた。だが今の零子にはそれではもう満足できなかった。

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