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世界の果てのサーカス

 上手くなった、と相司は思った。
 周囲でこんな馬鹿げたことをしている人間はいない。だから、どれくらい上手くなったかはわからない。最初は自転車に乗る事さえおぼつかなかった。今は荷台に立って曲乗りの真似事が出来ている。相司の中では月に行くほどの進歩だ。七日前、この空地でサーカス団が同じ芸を披露していた。サーカスを見たのは初めてだった。ひどく閉じた空間だった。赤と白の縞模様の天幕で覆われ空が見えなかったが、あれほどの解放感を味わった事は、相司にはなかった。今は天幕はないので、雨雲の動きがわかる。闇が周囲に迫り、地面に黒子のような雨の跡が現れ始める。空を見上げた。絵具で塗り込めたような灰色だったが、相司の気分はそれほど悪くならなかった。
 
 自転車を押し、相司は駅地下へと入っていく。外の世界よりひんやりとしていて、人通りも少なかった。無表情な人々を眺めながら歩く。構内に自転車の車輪の乾いた音が響いた。高揚感は消えていた。母に会うので気が重い。母はこの地下街のコーヒーショップで働いている。仕事が終わった直後はいつもよりさらに機嫌が悪い。
 やがて相司は母を見つけた。いつも通りだった。凝り固まった表情で、コーヒーショップのカウンター奥に立ち、仕事をしていた。レジの隣のガラスの中にドーナツがある。金網に乗ったピンク色、チョコレート色のドーナツは、人工的な光を浴びている。コーヒーの酸味のきいた匂いと、甘いにおいが交差している。
 母は相司と目を合わすと、表情を弛緩させたが、決してリラックスしたわけではない。心の平穏という言葉は母には縁遠いものだった。
 母の隣には、にこやかな表情の女性がいた。年齢はおそらく十八歳ぐらいだろう。
 「この子があなたの?」
 女性が母に聞いた。母は認めたくないが仕方なく、といった感じで頷く。
「自転車……」
 母が静かに呟いた。自転車で地下街に入ってくるのは構わないが、店の前まで来るなと言いたいのだと相司は理解した。
「ごめんね」
 相司はうなだれた。
「そう、怒らないで」
 女性は母をなだめながら、帰る準備を始めた。この女性も母と一緒に帰るようだ。
 相司は女性に対して警戒した。彼女の表情は母との表情とは対照的だった。相司が知る大人の女性は、みな表情が暗かった。母や学校の教師、どちらも生きる事の愉しさよりも、解消しようのない苛立ちがその表情から伺えた。この女性にはそれがない。相司の中では、それが不気味さにつながっていた。
「わたしは、あなた方と一緒のマンションに住んでるのよ」
 ただの同僚で、母の友人ではないらしい。相司の知る限り母に友人と呼べる人間はいない。おかしい事だとは思わなかった。大人には子供と違って友人がいない。哀しいが、それが普通だと相司は思っていた。

 地下街から出ると雨雲が目に入った。息苦しくなるほど厚みを増している。相司は掌を水平にして、水滴の感触がない事を確認した。空気は湿っていて、土のにおいを湧き立たせている。生ぬるい微風が心地よかった。遠くにマンション群が見え、さらに遠くのビルが霞んで見え、その四隅に航空灯の紅い光を纏い始めている。
「ずっと、何してたの?」
 女性が話しかけてきた。何もしていない、と答えるつもりだった。
 彼女は泥のついた自転車に注目している。自分自身が見られるより恥ずかしかった。泥は練習の賜物だった。ここは埋立地なので、相司の知らないどこからから運ばれた泥だろう。自転車についた泥は、他人には無意味なただの泥だが、そう見られることが相司には悔しかった。
「自転車の練習」
「乗れないの?」
 軽い口調だったが、馬鹿にする気は毛頭ない。相司は首を振る。自分の顔が紅潮していると感じた。
「違うんだ」
「何が違うの?」
「……曲乗りの練習」
 雨雲を眺めたままだが、母は相司の言葉を聞いているようだった。眉ひとつ動かさず、雨乞いをするように掌を水平にしている。
「曲乗り? 何それ」
 何も答えられず沈黙したが、相司は色々と話したかった。どうして曲乗りに興味を持ち、どの程度まで習熟したか。だが、言葉が出なかった。
「その、曲乗り、見せてよ」
「え?」
 目の前には、重苦しい雨雲が広がる。その下には、雑草が目立つ空地がある。その鉄条網で覆われた広場に、人間の気配はない。先ほどまでここで練習していたが、その寂寞さには気づかなかった。練習に没頭し、時間も空間も全て忘れていた。ここには、高層ビルが建つ予定だった。こういった空地は街のあちこちにある。相司は鳥のような気分になり、鳥の視点でこの町を観察してみた。まるで世界の果てのようだ。バブルの崩壊で、新都心夢は消え去った。ここがもう一つの首都と呼ばれる事は、たぶん永遠になくなった。
 相司は大人たちをはっきりと嫌っていた。子供なので詳細は分からないが、世の中の、あらゆるものが悪くなっている空気は感じていた。大人たちが自分たちの未来を台無しにしたのではないかと疑っていた。笑顔を見せるこの女性は、大人ではないが、相司の中では子供ではなかった。
 相司が首を振ると、彼女は笑顔で頷いた。
「そうか、また今度だね」
 即席のサーカス公演は取りやめになり、三人は相司の住むマンションに向かった。相司は自転車に乗らず、うつむきならが自転車を押していた。この状況がはっきりと苦痛だったので、車輪が回転する乾いた音に耳を澄ませてしまう。母はその隣で歩いている。女性は三人の中で、唯一快活そうに見えた。こんな人が自分と同じ排水管やら電線を共有しているのだと思うと、相司は妙な気分になった。自分とは全く共通点を見いだせない彼女が、同じ生きる糧、生命線を使っているのだ。電気が止まれば同じ闇に沈み、水道が止まれば同じ渇きを味わう。
 いま曲乗りを見てもらわなかったら、次に見てもらうのは、いつの事になるのか、相司には想像もつかなかった。三日後か、三か月後か、三年後か。もし、明日が世界の終りだったら、もう二度とないだろう。
 相司は足を止めた。
 女性も足を止め、振り返った。相司は自転車を押して広場の中に入っていった。母が無言で自分を眺めているのが見えた。
「どこいくのー?」
 女性が相司の背に向かって言った。
「曲乗り、見せるよ」
 振り返りながら相司が言った。
 今までの練習とは違う。人に見せるための曲乗りだった。不思議たった。練習より上手くできそうな気がした。本番をしくじれば、練習や備え、努力など何の意味も無くなる。だが、今の気分はそういった考えを超えていた。失敗したら酷く傷つくと分かっていても、やりたかった。それが自分にとって本当の望むことであり、大げさに言えば生きる糧であり生命力だった。それが分かっただけでも十分満足だった。
 相司は二人から少し離れた。先日観たサーカスでは、ちょうど客席とステージの距離がこれぐらいだった。
 自転車を走らせると、相司は荷台の上に飛び乗って直立して見せた。その間、ペダルは漕がないので、せいぜい十秒ぐらいで失速する。そしてまた、サドルに座り、ペダルを漕ぐ。そして荷台に飛び乗る。それの繰り返しだった。単調な動作だが、癖になり、命のある限り、何度でも行いたくなる。
 二人の観客を見ると、女性は拍手していたが、母は腕を組んで、相司を見ているだけだ。視線は合わなかった。
 相司はバランスを崩して倒れた。
 顔を上げると、背を向けて帰り始める母が見えた。
 空回りする車輪の音だけが響いていた。
 歯で口の中を少し切った。血が出ていて、鉄の味がした。転倒は何度もしたが、怪我をするのは初めてだった。今までは転倒する時も集中力を欠くことはなかったからだ。幸いなことに虚しさが、痛みを忘れさせてくれた。不思議な事を学んだ。誰かに見られているほうが孤独な時もある。
 相司は自転車を起こし、ゆっくりと女性の元へと向かった。
 女性は拍手を止め、ただ笑顔だけを浮かべていた。相司は広場から離れる母の背中を見た。母が曇り空に溶けていくようだった。
「上手かったよ」
 女性の一言に救われた。全身に血液がめぐる事を実感した。
 母の背中を追う気にはなれなかった。帰る家は一緒なのだ。母は相司と同様に何処にも行けない。この街でいつまでも暮さなければならない。相司の家は車を持っていない。あるのは、曲乗りの練習ですこし歪み始めたこの自転車だけだ。遠くへと行く事は出来ない。
「一回ぐらいにしとけばよかったのかな」
 相司が呟いた。気分が良くなって、何度も繰り返してしまった。曲乗りをあんなに繰り返せたのは初めてだ。
 観客は二名。拍手は一名。
 それが、相司の初めての公演だった。

 ※本作品は「湾岸曲芸団」の第四話にあたります。

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