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mind circus

 からりと晴れた日曜日の真昼。街の中心部では、高層ビルがガラスの表皮に青空を写し出していて、車も人の気配もなく、音もなく、町全体が、いつから始まったわからない長い長いうたたねをしているようだった。雲が流れて、ビルが隠れるほどの影が撫でるように渡ってゆく。ビルの谷間の空き地では、十歳の相司が、ひとり自転車の練習をしていた。
 空き地は有刺鉄線で囲まれていて、泥の地面にはショベルカーの跡が至る所に残っている。この海岸の街は、バブル期のビル建設がストップした為に出来た空き地が数多くある。その空き地に来たサーカス団の曲芸に魅せられてから、相司の人生は大きく変わった。
 曲芸を身に着けることが、大げさに言えば人生の目標になった。曲芸で生活していこうという気はない。曲芸を行うこと、そして、続けることが目標になった。曲芸―と言っても自己流の真似事だが―に失敗し、転倒し、自転車から投げ出され、柔らかい土の上に大の字になって、輝く青空を見上げると、世界は大きく変わったと、相司は思う。それはもちろん妄想にすぎないという事は理解している。孤独な十歳の少年が曲芸に夢中になっただけだ。世界は何も変わっていない。妄想ではあるが、ねじくれた妄想ではない、と相司は思う。健康的な妄想。それが人が生きて行く上で、人を動かす上で、とても大切なものだ、と相司は感じた。事実、曲芸の練習は、ずっと続いていた最低の気分を、ほんの少しだけマシにしてくれた。
 何度かの転倒ののち、誰かが自分を見ている事に気付き、相司は練習を止めた。自分を見ているのか、それとも自分の曲芸の真似事を見ているのかはわからないが、空き地を囲う有刺鉄線の向こう側に立っていて、じっとこちらを見ている。
 相司と同じ年頃の少女だった。
 学校で良く見かけたので、彼女の事は知っていた。肩までかかる鮮やかなオレンジ色の髪は、忘れようとしても忘れられない。生え際は黒くなっているので、オレンジ色の地毛ではないことは明白だった。少女の表情は常に硬くて宇宙人じみているので、黒く浸食された生え際がなければ、オレンジ色の髪が地毛だと信じてしまうほどだった。だが、あくまでそれは学校で彼女が見せる表情であり、いまの表情は比較的人間味があり、落ち着いて見えた。髪を染めているとしても、自分の意志であるのか、親の考えであるのか、誰もはっきりしたことはわからなかったが、いずれにせよ、あんな髪の子供を学校に通わせるなんて、ろくな親ではないと、みんなで噂している声を相司は聞いていた。
 相司は彼女を無視して自転車の練習を続ける。彼女の事など、相司にはどうでもよい。ただ、時々、オレンジ色が視界に入るのが鬱陶しいので、さっさと立ち去ってほしかった。
 自分でもだいぶ上達したと相司は思う。この空き地で練習を始めた時は、自転車にすら乗れなかった。だが次の段階、曲乗りはまだできない。どんな曲乗りを考えているのかというと、走りながらサドルの上に立つというものだが、どうしても怖くて立てない。一度だけ立てた事はあるが、すぐに倒れこんでしまったので成功と言えるかどうかわからない。その時は、痛みとともに笑いがこみあげた。こんなところで何をやっているんだろう、と自分を笑い飛ばしたくなった。他人から笑われるのはつらくて不快だが、自分で自分を笑うことは、こんなに愉快で爽快なのだと初めて知った。
 自転車のサドルに足を乗せ、立ち上がろうとした時、相司は気づいた。地面にたたきつけられる恐怖の感情の他に、今までなかった感情が芽生え始めていた。曲芸の練習を行うのが、妙に恥ずかしくなったのだ。それは、少女に見られているために生まれた感情だと思った。少女が現れる前は、こんな感情は自分の中にはなかった。
 少女の事をいないものと思って、相司は練習を続けた。
 何度倒れても、もういちどやりたくなる。感覚をつかめたと思った。上手く行えるという感覚ではない。これを続けていけるという感覚。これを行っている時は、周囲から自分を切り離す事が出来るという感覚だった。自分の意志で、一つの塊から離れ、少し離れたところにぽつりと浮かんだ状態。それは決して孤独ではないと、相司は知った。
 そのうち、あの少女に見られているから、上手くいかないのだと思うようになった。
 学校で遠巻きに何度も見かけてはいるが、一度もあの少女とは話したことがなかった。
 相司は早く曲芸がうまくなりたかった。何度転んでも、曲芸をものにしたかった。サーカス団の曲芸を見た時の昂揚感。あれをどうしても人々に味あわせたかった。相司が初めて抱く感情だった。人に何かを見せたい。その一心で必死に練習している。自分に特別な才能はあるとは思えない。だが地道な練習を繰り返すことにより、いつか人を驚かせ、昂揚させるあの曲芸ができるのだろうという根拠のない確信に酔いしれた。
 彼女がいると、やはり、どうしても練習に身が入らなかった。彼女と話したくはなかったが、早く練習に集中したかった。
 相司は勇気を出し、彼女に近づいてゆく。野良猫のように、近づけば何処かに行くと思って、なるべくゆっくりと近づいたが、無駄だった。少女は何も言わず、悠然と立っている。目の前まで来てしまった。遠くからは鮮やかに見えたが、近くに寄るとオレンジ色の髪は一本一本が傷んで見えた。眉間に小皺が寄るのも見えた。相司は有刺鉄線の棘を避け、指を置き、言葉をかけるタイミングを計っていた。驚いたのは彼女の堂々とした振る舞いだった。学校では常に人目を気にしながら移動しているのに、ここではまっすぐと相司の目を見つめている。
「何見てる?」
 まるで、あいつらのようなしゃべり方になってしまった。それと同時に、兄に殴られたあいつを憐れむ気持ちが少し湧いた。自転車に乗ったあいつらは相司を目の敵にしていた。曲乗りの練習をしている相司にしつこくからんだその中の一人は、相司の兄にこっぴどく殴られてしまった。
「別に」
 少女は答えた。その目は輝いていて、まるで相司の心を見通そうとしているようだった。相司はそんな視線を浴びせられた経験は無い。ましてや異性である。言葉を忘れて、ひたすら照れるしかなかった。
「見ないでくれよ」
「何を? あんたの顔?」
「練習」
 相司は絞り出すように言った。しどろもどろになって、何も言えないかと思っていたが、思ったより素直に言葉が出た。
「別に、いいじゃないの」
 ここで何をするのも、私の自由と言いたかったらしい。普段、学校では自由を感じられないので、彼女は、ここでは自由に振る舞いたいのだと相司は思った。その事を確かめたかったが止めた。問い詰めて本音を言わせるような事はしたくなかった。考えてみれば、相司にしても同じ事だった。家や学校では全く自由を感じる事は出来ない。曲乗りの練習をしている時だけが、唯一、自由を感じる事が出来る。
「別にいいけどさ」
 言葉にすると別物に変質してしまいそうなので、この自由な気分を言葉にしたくはなかった。
「つまり、見てていいってこと?」
 彼女の表情が明るくなった。それを見て相司の心も開放された。心の変化を誤魔化すように、相司は彼女に顔を近づけた。有刺鉄線の棘が掌に食い込みんだ。痛みで顔をしかめ手を有刺鉄線から離した。彼女はじっと相司の掌に現れた点状の血を眺めた。
「大丈夫?」
「学校の連中には言わないでほしいんだ」
「どうして?」
 彼女はなぜ、学校の連中には言ってほしくないのか、相司の真意を見抜いたうえで、あえて言っているのだと相司は感じた。彼女の目の輝きは、一部の共感できる人間と共有できるものを見つけた喜びの表れだった。そして全てから解放される空間。それらを彼女は見つけたのだ。だから、離れたい対象である学校の連中に言わないでおいてほしいと頼むのは、相司にとって自然な事だと理解できるはずなのだが、彼女はあえて恍けて見せた。相司はそう思っても、不思議と腹が立たなかったし、見え見えの芝居だと白ける事もなかった。かわりに、首筋を擽られるような妙なざわつきを感じた。
「どうしてって」
 ふと、相司が疑問に思ったのは、彼女が自分という存在をどう認識しているか、という事だった。他人の目から見た自分に関する想像。そんな想像をするのは初めてだった。
「僕が、学校でどういうふうに見られているか知ってる?」
「おとなしいかんじ?」
「そんなかんじだよ」
「曲芸の練習しているのが知られると、恥ずかしい?」
 彼女の言う通り、恥ずかしいという気持ちもあった。
 自転車の曲芸なんて、誰もやっていないことだし、本当にやりたいことだから、自分の内面が曝されてしまう気がしたのだ。本当にやりたいことを自慢できる人間が羨ましかった。相司は一人だけそんな人間を知っている。相司の父だ。彼は自分のやりたいことをやって、全く恥じることのない人間だった。うらやましいが相司にはとても出来そうにないと思った。
「まあね。もう何人かには知られてるけど」
「じゃあだまっててあげる」
 相司は自分の手を見た。有刺鉄線の棘で出来た傷は掌の中でもう乾いていた。血は引き伸ばされた絵の具のように掠れている。
「そのかわり、見てていい?」
「何を?」
「話聞いてたの? あんたの練習」
 彼女はそう言うと、答えを待つ間、学校でいつも見かける、あの伏し目がちな、誰からの視線も恐れている硬い表情に戻った。相司が何と答えるか不安のようだった。
「いいよ別に」
 相司は、見られても良いと思った。相司と彼女は、お互いに自由だ。何もないこの空き地にいる限り、自由に振る舞えるのだ。それを二人で共有できることが嬉しかった。相司の言葉を聞くと、彼女の表情が弛緩した。
「いつも、ここで練習してるの?」
「そうだよ」
 曲芸の練習できる場所など、柔らかい泥のあるこの空き地しかない。
「今日はもう、行かなくっちゃ」
 言葉に別離の寂しさ、無念が滲んでしまったので、彼女はあわてて取り繕う。
「また来るよ。あんたが、転ぶところを見るのが面白いからね」
 憎まれ口である事は分かっていたが、相司は相手の望む、正しい反応が出来なかった。照れくさくて沈黙する事しか出来なかった。一番まずい反応である事は分かっているのだが、こういうやり取りに慣れていなかった。彼女にとっても慣れないやり取りである事は、困惑した表情からも読み取れる。彼女も少し背伸びしすぎたのだと後悔しているようだ。相司は精一杯、感情を出そうとして、はにかみながら頷いた。彼女も気まずそうに笑顔を浮かべた。格好の良いやり取りではない。不格好だが相司は、構わないと思った。彼女は相司の顔を見たまま、二、三歩後ずさりすると、背を向け、走り去った。彼女が灰色の高層ビルの合間に消えてからも、相司の頭の中にオレンジ色の残像がしばらく頭の中に残った。
 相司は沈黙の中にいたが、普段とは違っていた。あの、サーカスの騒々しさを思い出していた。
 何故か心が躍って落ち着かなかった。相司は自転車を放置してある場所に戻り、再び練習を繰り返した。
 さっきは、彼女に見られているので、練習に集中できなかったが、今では逆だ。彼女に見られていないから、練習に集中できない。
 そういえば、彼女に大切な事を聞くのを忘れていた。
 どうして、彼女の髪はオレンジ色なのか、誰に染められたものなのか、聞こうとしていたが、忘れてしまっていた。そんな事はどうでも良い。今はただ、自分の心と踊っていたかった。

※本作は、湾岸曲芸団の第三話にあたります。

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