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2011年、夏 その3

夢にまでみたカブトムシが、目の前にいる。しかも三匹。
おれは、息すらしていなかった。というかできなかった。

目の前にいるカブトムシは、ちょっと息を吹きかけただけで飛んでいってしまうんじゃないか。そんな気がして息ができなかった。

はしゃぐ隆成を制し、おれは息を必死に殺してカブトムシに近寄った。
心臓の鼓動が、自分の耳にまで聞こえる。網を持つ手が震える。

足を擦るようにじりじりとカブトムシに近づき、おれは思いっきり網を振った。

「ぉおあァっ!」

パサッ。


白い網が、カブトムシに覆い被さる。
三匹のカブトムシは、確実に網の中だ。
風を包んで膨らんだ網は、おもむろに萎んでいく。

しかしカブトムシは、微動だにしなかった。
今まさに捕らえられようというのに、相も変わらずバナナをペロペロしている


そのまま網を幹にそって擦り下ろすと、網の中に、ボト、ボト、ボト、と落ちていった。

甲虫王者は、捕まえるのはわりと簡単だった


「…とった」「とった」「とった!!」「とったぁあああ!!!」


手の中に、いる!カブトムシがいる!おれがつかまえた!おれがつかまえた!!

ただひたすらに嬉しかった。緑色の虫かごに移した後も、カブトムシにくぎ付けになっていた。

お父さん、何ていうかな。びっくりするかな、びっくりするよな、いるわけない、とれるわけないって思ってるよな、ぜったい。


帰り道、月明かりに照らし、なおもカブトムシを見つめながらおれは考えた。

今日一日で3匹。一日で3匹も。静岡にいるのはあと10日だ。
3匹、とおか。さんかける、じゅう。3×10。






30

ちょっと、ぞっとした


ーー

しかし現実とはそう上手くもいかないもので、あれから一週間が経つが、カブトムシは一匹も現れない。
はじめに仕掛けたサルスベリの木をはじめ、今度は長いビニールテープも用意して様々な場所に仕掛けてきた。それなのに、居るのはムカデやスズメバチ、コガネムシにツマグロヒョウモン。肝心のカブトムシが現れない。

弟やいとこたちは、なかなか現れないカブトムシに痺れを切らし、とうとう「ドラえもんをみるから」などという訳の分からない理由でついてこなくなっていた。

おれだってみたい。だけど、それよりもカブトムシに対する熱量のほうが高かったおれは、ドラえもんの誘惑を振り切り、賑わう居間を背にし、一人黙々と台所でバナナトラップを生産していた。

「ちょっと焼酎ちょうだい」

まだ6時だってのに親父は、たっくんとおじいちゃんと一緒に酔っぱらってる。

「カナタ、あんまりたくさん使うなよォ」
「ムシにあげるために買ってきたんじゃないんだからな」

うっさいだまれ


「よし、行ってこい、ムシ」

酔いのあまり親父は”息子”と”ムシ”の区別がつかなくなっていた。

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