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将棋に負けた言い訳を2000字で徹底的に説明した

きのう、今働いている塾の室長・岡田と将棋をやったら、こてんぱんに負けた

俺にとって将棋は小学生以来で、それもルールすらままならない4つ下の弟としかやってこなかった。
弟には「将棋を教える」という体で適当な駒を動かさせ、その隙を突いてフルボッコにすることで、「兄としての威厳」をかみしめていたのだ。

【備考:弟と将棋をたしなんだ日々】
ぼく「この、"ギン"、っていうのは、ななめと、前にいけるんだ。やってごらん」
弟「うん、わかった」
ぼく「ほな、いただきます」バチン
弟「ええっ」


そんな将棋しかやってこなかった俺はもはや、「ただルールを知っているだけの人」同然の実力といえよう。対する岡田は、随所に「将棋うんちく」を挟んでくるほどの手練れ。
これはもう、「オープンワールドをいいことに初期装備でラスボスに挑む」ような無謀な挑戦だった。負けて当然といえば当然

しかし俺はいまなんと 猛烈にくやしい

くやしすぎる、こんなにもくやしいのはいつぶりだろうか。

理由は二つあり、「岡田の将棋うんちくがシンプルにムカついた」のがひとつ。
そしてもうひとつは、”将棋”というゲームの性質に基づくものである。

将棋とは「論理的思考力」をとって固めたようなゲーム、つまりそう、伊達にも「理系のはしくれ」である自分がこうも簡単に負けてはいけないのだ。

要は「将棋」なんてものは、経験なんぞなくともアホみたいに頭を使ってゴリゴリ考えていけば、数学の問題を解くように「いい手」が見つかるゲームだと思っていた。

なのに、実際はそううまくいかなかった。それどころか俺は、なに一ついい手が思いつかず終始モジモジしてしまった。


もしかして俺には、「論理的思考力」なんてものはないのか?「理系」を語るには程遠い、義務教育という名の「従順な人間を量産するシステム」に扇動された、あわれな「社会の歯車予備軍」だったってのかい?



ちょっとまってくれ。「将棋中モジモジしてしまった」からといって「論理的思考力がない」と決めつけるのはあまりに短絡的すぎる。
そこにはもっと、根本的な理由があるはずだ。

ということで今回は、「俺がなぜ将棋に負けたのか」を徹底的に掘り下げ、その真髄に迫ると同時に、自分には何が足りなくて、何を身につけなければならないのかについて考えてみた。

(以下、「ひどい衝撃を受けて急にめちゃくちゃしゃべりだす童貞」よろしくものすごい言い訳が続きます。時間を有効に活用したい方はこのあたりでおいしいごはんでも食べにいってください)


ー読まなくてもいい部分ー


まず、今回の一番の敗因は「将棋中完全に思考停止してしまった」ということである。
もう頭が真っ白になった。この原因について考えた結果、次の結論に至った。
それは、「人間の演算処理能力の限界」である。

「いい手」かどうかを判断するには、ほかの駒を動かした場合との比較の上で相対的に評価する、もしくはなにかしらの評価軸を導入して絶対的に評価する必要がある。
しかしいずれの場合にせよ、任意の駒を動かした際「そのあとの展開がどうなるか」までを予測しない限り、俎上に載せることすらできない。

ひとつの手に限定しても膨大な計算量を要するというのに、それを複数ある選択肢に対して同じ処理を行うとなると、途方もない計算量になってしまう。そのうえで計算結果を比較しないといけないのだから、当然結果を記憶しておく必要がある。
たとえるなら重厚な数学の難問を複数題、瞬時に計算した上に、その答えを覚えておきながら最後に大小を比較し最良な一手を回答する、これらすべての操作を暗算で行うようなものだ。
つまり「あまりに考えることが多かったが故のフリーズ」である。

では将棋の名人と呼ばれる人々は、これらの処理をすべて頭の中でこなしているのだろうか。
おそらく、半分正しくて半分間違っている。(しらんけど)
彼らはあらゆる手を、何も考えずしらみつぶしに吟味しているわけではない。考える前に、ある程度の「あたり」をつけているのだ。
「勘」を頼りに、ありえないであろう手を考慮の対象から除外したり、おそらくこれであろうという手に限定して考慮する。
だから、思考停止に陥らないためには、「計算力」に加えて、この「勘」が必要になってくるのだ。

では、この”勘”とは、いかにして身につくのか。
まず、勘の「確実に正しいとはいえない」こと、「一般に伝承不可能であえる」という性質から、勘は単なる「知識」の集積に基づく思考ではないと考える。
ここでいう「知識」とは、真偽が明確に定まっている事実のことで、確率論でいうとかなり厳しい制約を内包した概念である。
このような知識に基づいた思考が「論理的思考」であり(それ以外にもあるのかもしれないが、妥当性のもとで市民権を得ているのがこれだ)、これによって導き出される結論は”確実に”正しい。また論理的思考は言語化が可能で、ゆえに伝承可能な考えでもある。
論理的思考が前提としている「知識」が、かなり限定的であるがゆえに説明されることの範囲も限られてくることからも、勘は知識に依ったものではないと考える。

勘とは、知識よりももう少し制約を緩めた、「確率的におよそ正しいであろう」事象の集積によって培われるものだと思う。そこに論理は存在しない。
確率のもとに先述の「知識」を換言すると、知識とは「確率1の事象」、一方で勘をつくりあげているのは「確率1未満の事象」である。知識のような、「揺るぎない足場」に基づいて考えを深めていくのが論理であるから、これは論理が扱うことのできない対象であり、ゆえに論理とは異なる思考法が求められる。
それがいわば”勘”なのだ。
一般に説明不可能でありながら、「確実とはいえないがかなり高い確率で正しい」結論を導き出すことのできる思考。

これを身につける術はただ一つ、「経験」である。
知識、ならびにそれを扱う論理的思考は、伝承可能であるがゆえに「すでにあるものを自分の中に取り込む」形で身につけることができる。一方で”勘”のもととなる考え方は、説明不可能であるがゆえに外から取り込むことができない。自分の中で醸成するしかないのだ。

つまりこのことからいえる衝撃の結論とは~~~~!!!!



「もっと将棋しろ」




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