見出し画像

【掌編小説】夢           (2019発行「剥離と骨」収録)

 里見は夢を見ていた。

 どこにもいけないなあと土岐が嘯く。
 夜の空気をしんしんと溶かすように霧雨が舞い、夏と秋の間を装う風が川辺を過ぎる。
 群れる薄は一斉に靡き、足元に枯れ葉が落ちる。
 静かに濡れゆく肌が冷え、里見は蹲る。薄の根本に転がっている土岐がまた呟く。どこにもいけないなあ。

 土岐は微笑むような声で諦念を唱える癖がある。それは自嘲でも恨み言でもなく、誰かの詩編を読むような、他人事の響きだった。そして里見は何か言葉を返すでもなく、頷く。それで会話は閉じた。言葉に滲む背景も、賛同の応答も、互いに欲するところではなかった。

 この男はきっと死にたがっている。
 転がる彼の顔や腕には湿った泥がついている。白い上着は泥と草で汚れ、暗闇にぼんやりと滲んでいる。その方方に絡み付く細い草と霧雨とが合間って、俄に森の香りがした。里見は土岐の頬に爪を立てる。泥が刮げて爪の間を黒く埋め、頬には赤い擦過傷が走った。土岐は眉を顰めて睨む。

「痛い」
「だめだな」

里見は薄を一本折り穂を揺らす。霧雨にふわりふわりと宵闇の幻の様、泳ぐ。

「蜘蛛がいるから気を付けろ」

土岐が言う。

「蜘蛛、」
「樺木小町蜘蛛。薄に住んでいて強い毒がある。十日寝込む程度だが」

 土岐は泥塗れの人差し指と親指でこれくらいの大きさ、と見せた。指の一節にも満たない。これくらいで、黄色と赤と黒の混じった華奢な虫だ。綺麗だと思うんだけど。笑う。

「仕事をさぼるには丁度良いか」
「俺のような虚弱は死ぬかもしれないがな」
 物騒なことを言う。

 産卵期の雌は繊細で、刺激を与えると毒で咬む。そして孵化した子蜘蛛の餌となり消える。

「毒を吐き死ぬ程の愛というのか」
「さあ、愛なんて後付けだと思うがね、まあそうやって生きているだけかもしれない、他に生きる術がなかっただけかもしれない」
「他に、」

 湿る風が抜ける。里見の手先で穂が揺れる。寝転がる土岐の髪を撫ぜる。

 里見は再び土岐の頬の土を爪で掻いた。土岐は何も言わない。滲む擦過傷も、内側から癒えるのを待つばかり。夕闇は深みを増し、土岐の影も里見の影も繋がるひとつの夜だった。そこにゆれる髪も、湿る肌も、諦念の笑い声も、毒霧のように土岐を蝕み、土岐から夜へ滲み出でる。里見はそれを僅かに掬うばかりだ。枯れ草の中から、霧雨の中から、土の中から、夜の中へ。

「訊いてみるといい」

 土岐が笑いながら里見の顔前へ指先を突き出した。早くしないと逃げるぜ。
 黄色い蜘蛛は黒い顎を擡げ、その指を咬んだ。
 途端、里見が握っていた薄が砂のように崩れた。それは蜘蛛の群れであり、土岐を瞬時に覆いつくしたのだった。
 土岐は蠢く黄色い塊であった。里見は溜息を吐き、それを蹴り飛ばす。

「酷いな、」

 耳元で聞こえたが、蜘蛛が散った後には、ただただ四本の骨が落ちているだけであった。

【了】

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?