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【掌編小説】箱


随分と遅くなった。
車窓の外は等間隔に外灯が行き過ぎるだけで、夜の中でも特に深い色をしている。その色に目を凝らすと己の顔があった。俄かに波を打つ硝子には己の白い顔と夢うつつの土岐、揺れるつり革が投影されている。車体が大きく揺れ、身体が傾く。土岐が目を覚ます。河川を渡る直前の切り替え地点で必ず大きく揺れるのが、この路線の特徴だ。

作家仲間との宴会帰りだった。仲間内の愚痴に浸した刺身を食らい、噂話を煮詰めた雑炊で〆る。
かつては笊であった土岐もこのところは一杯も飲まなくなった。合わせて里見も量が減っていった。互いの書斎で延々と飲みながら悪戯に筆を走らせ詩編や小話を繰り出していた、そういう他愛のない夜はもう二度とこないのかもしれない。歪んだ硝子に写る己と隣の男の顔を、興味のない展示会の絵画を見るような心持で眺めながら思う。

最終列車は閑散としていた。
里見と土岐、会社勤め風の男がふたり、和服の女性がひとり。

不意に列車が大きな金属音をたてて止まった。夜に木霊するその音を背景に、吊革のすべてが等しく揺れている音が響く。

窓の外に目を凝らすと、白い駅舎が見えた。普段は通過する貨物駅だ。

「ここ、来年から過客駅になるらしいぞ」
土岐が急に饒舌に喋りだす。
「こんなところに止めても周りは寺と畑ばかりじゃないか」
「知らないのか、延伸工事をしているんだ。このあたりは確かに家は少ないが、少し先に集落がいくつもある。炭酸水や自動車の工場もできた。物流も捗るというものだろうさ」

土岐が両腕をあげ大きく伸びをすると、はす向かいの女性がこちらをちらと見た。大きな風呂敷包みを抱え、不安そうに外の様子を伺っている。

お弁当かな、土岐が呑気に呟く。重箱の大きさであるのは間違いない。そうしていると女性がすっと立ち、里見たちの元へ近づいてきた。艶のある袖に白檀が香る。すみません、と声がした。
「あの、気分が悪くて」
「大丈夫ですか、」
土岐が聞いたこともない柔らかな声を発し、里見は呆れが顔に出ないように飲み込んだ。土岐は白檀の香りを好む癖がある。
「少し外で風にあたりたいのです、その間、こちらを見ていてくださいませんか」

両腕に抱えた重箱と思しき風呂敷包みにふたりは目を落とす。俄かに青い唇を噛みしめている女性から里見は二つ返事で荷を受け取った。からん、と聞こえた軽やかな音の割にずしりと重い。

「いつもまだ暫く停車しているので、その間だけ、すぐに戻って参りますので、お願いいたします」
土岐が懐から出した手巾と水筒を受け取ると、女性は何度も頭を下げながら車両から出ていった。

「弁当だろうか」
すっかり目の冴えた土岐の踝を里見はつま先で蹴り飛ばす。
「弁当なら、食後だな、からから音がした」
「なんだ、」
「まだ腹が空いているのか」
「全く」
土岐は欠伸をして目を閉じた。それ、随分と重いな。
里見も目を閉じた。重箱の重みと風呂敷の手触りを両掌に受け止めている。

やがて、高い金属音と車輪の音が勢いよく通り過ぎていった。長い貨物列車が隣の線路を駆けていく。その音が夜空に消えていく頃、里見たちの乗った客車も動き出す。
「おい、」
土岐が里見の肩を揺する。
「戻ってこなかった」
「そうだな」

里見はどこか、判別していたような心持ちであった。
歪んだ硝子に写る己と隣の男の顔を、興味のない展示会の絵画を見るような心持で眺めながら思う。他愛のない夜だ。車輪が線路の分岐点で大きく揺れる。箱の中でからからと音がする。あの水筒、記念品だったんだがなあ、土岐が天井を仰ぐ。しばらくすると抱えた重箱からじめりとしたものが漏れ、風呂敷を伝い、里見の手をべたりと濡らしていく。
「ああ、面白いなあ、こういうの書きたいなあ」
他愛のない夜に。

【了】


戦後間もないころ、父が実際に体験したという話を元に。

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