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余命宣告されたとしたら

大相撲中継を見た後、NHKを流しっぱなしにしていたら『100カメ』という番組が始まった。設置された100台のカメラの映像から人間模様を観察するドキュメンタリー番組だ。わざわざ放送日時を調べるほどではないが、ドキュメンタリー番組が好きなので何度か見たことがある。

今回のテーマは「余命」だった。余命宣告された本人やその周囲にスポットが当てられていた。誰かを残して亡くなる人、誰かが亡くなって残される人。双方に様々な想いがあるだろう。健康的な人が今後について考えるのとはわけが違う。医師から余命宣告され、残された時間が明確になっているのだから想いの重さは桁違いだろう。

あと数年すれば人生が終わるという事実を抱えながら、みんな日々を大切にしながら生活をしていた。なんとなく生きている僕なんかよりよっぽど生き生きし、残りわずかな命を輝かせていた。

もしも僕が余命宣告されたらどうなるだろう。最期の瞬間までやりたいことをやるだろうか?「明日死ぬと思って人生を考えてみる」なんてありきたりな文章が浮かんでくるが、きっといつもと変わらぬ日常を過ごす気がする。死ぬまでの時間がわかったので急に頑張るなんてのは性に合わない。仕事くらいは休んだり、辞めたりするかもしれないが、それ以外は深く考えずにのらりくらりと生きていたい。

まだ若い妻や幼い我が子には未来がある。何者でもなく、何も持っていない僕が家族に残せるものはないかもしれない。忘れてほしくないと思いつつ、忘れて新たな人生をスタートさせてほしいとも思う。

もしも僕ではなく家族が余命宣告されたとしたら、できる限りやりたいことをやり、好きなように生きさせてあげたい。お別れまでの時間は用意されるが、きっと最期まで気持ちの整理がつかないだろう。覚悟を決めて構えなければいけないだろうけど、あわてふためく自信しかない。

余命宣告された人の姿に感化されて色々と考えてみたが、やっぱりどこか自分には起きないことと考えてしまうので当たり障りのない感じになってしまう。永遠なんてあるはずないのに、今ある日常が、自分の人生が永遠に続くものだと心のどこかで思っている。

自分のため家族のために残せるのは文章くらいだ。いつ終わりが来るかわからないが、その時まで拙くても言葉を紡いでいきたいと思う。もしもを考えたら自分が文章を書く理由がちょっとだけわかったような気がする。

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