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「……」

「……(三点リーダー)」は甘えだ。余韻や間を点々で埋めるなんて怠惰だ。きちんと文章で表現しなきゃ。そんなんで上達できるはずがない。と思い込んでいたので、私が昔書いた小説には三点リーダーがない。同様の理由で三点ダッシュも使ったことがなかった。

でも今は違う。ガラリと考えが変わった。服部まゆみの小説に出会ってからだ。今年の初めに『シメール』を読み、最近『罪深き緑の夏』を読んだ。幻想文学最高。どちらも好きな作品だし、これから読もうと思っている『この闇と光』も好みの小説に違いない、という予感がしている。

彼女の使う三点リーダーには色気がある。『ベニスに死す』のアッシェンバッハが焦がれるようにタージオを見つめるまなざし。あれに似ている。ただの記号として使っている人ではないということが分かる。ものにしているから、こういう表現ができるのだ。『シメール』も『罪深き緑の夏』も、けっこうな頻度で三点リーダーを使っているが、あるべくしてある、という感じがして……というより、彼女の文体がそうなのか。全てあるべくしてある、文章から成っている。こう書きたい、そうあって欲しいという、書き手の操作がないような印象を受ける。
特に『シメール』はそうだ。文章が物語をあらわすツールに成り下がっていない。置かれるべくして置かれた文字で世界が構成されているというか。文字が自らそこに配置されたがっているというか。とても不思議な力を感じる。それほど洗練されているということだけど。いずれにしても、このような読書体験は初めてだった。

書き手は文字を使って、世界や関係を記すのに注力する。当然の成り行きだが、そこが一番、難しい。こういう流れでこう書こうと決めても、必ずつまずいてしまう。苦労したところに手垢がつく。技巧の匂いがする。それは仕方のないことだが……私は服部まゆみの小説を読んでしまった。彼女の文体に対して「そう」感じてしまった以上、これを理想としないわけにはいかなくなってしまった。

私はこれから長編小説を書こうと思っている。屋敷の中で起こる物語。おそらく幻想小説になると思う。ストーリーとドラマの交錯がうまくいかず、書いては捨てを繰り返して、今ふたたび白紙になっている。構想期間を含めれば5、6年ほど。そろそろ書き上げたい。頭の中にあるものを形にしたい。ただ、理想の文体を目指して書いてしまえば、また筆が止まってしまうだろう……私は私の文体を模索しなければならない。

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