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【短編】リリィ

「あの古時計はねじを巻かなくても、ずっと動いているんだ。守り神がいるって話を、じいちゃんから聞いたことがあるよ」
お父さんはそう言っていたけれど、ほんとうは違う。私はちゃんと知っている。あの時計の、ふりこが仕舞われているところには妖精が棲んでいて、その子がいるかぎり、針がまわり続けているってこと。
「でもどうして、あの部屋へ行ったんだ。いろいろ散らかっているから、危ないだろう」
「授業で自分史をつくっているから、写真がほしかったの。来週、発表があるのよ」
「もしかして、授業参観のときに?」
私はうなずいて、薄いアルバム帳を、お父さんに渡した。一緒に選んでほしいって言ったんだけど、お父さんは返事をしなかった。そのまなざしは、私たちの幸せだったころの風景にすいこまれていたから。でも、そうよね。当然だと思うわ。お父さんが見入っていた写真にはぜんぶ、お母さんが写っているの。三ヶ月前に死んじゃった、お母さんが。お父さんは愛おしそうに写真を指でなぞって、一枚だけアルバムから引き抜いた。
「お前が好きな写真でいいんじゃないか」
思い出したように言って、私にアルバムを返した。そそくさとお風呂に入る支度をする。私はため息をつきながら二階へあがった。突き当たりの部屋に入って、古時計のまえに腰かける。「リリィ、リリィ」って祈るように呼んでみる。金のふりこの裏から、薄ももいろの翅がちらりとのぞいた。
「あたし、仕事中なんだけど」
シフォンのスカートを直しながら、リリィはけだるげに言った。ばらの花びらのような唇をゆがめて、えらそうに腕をくんでいる。それがちょっと腹立たしくて、私もこう言い返した。
「ここを通って、あなたの国にはいるひとなんか、いやしないわよ。案外、番人って暇なんじゃないの」
「あんたみたいなのがしょっちゅう来るから、見はらないといけないのよ」
私たちの世界には、いくつか妖精の国へ通じる抜け道があって、番人に選ばれてしまった妖精は、そこに人間がはいってこないように見はらなきゃいけないらしい。でも、そんなこと、どうでもいいの。私はさっき、一番、幸福だったときの写真をお父さんにとられてしまったから、私の幸福をもういちど探し直さなきゃならない。だから、リリィと一緒に探そうと思って、呼んだんだけど。ぱらぱらとアルバムをめくっていると、幼稚園のころに好きだった男の子の写真が出てきた。
「ねえ、リリィは好きになったひとに、ちゃんと好きって伝えられる?」
「なにそれ」
リリィはほそい眉をつりあげて、いたずらっぽく笑った。でもその眼は、きれいな青い眼は、どこか遠いところを見ている。
「……あたしは伝えられないわ、きっと」
ようやっとそれだけをつぶやいて、彼女は眼をふせた。ながいまつげの影までもがつやめいている。大人の女の人って感じだ。今までみたことのないリリィの表情に、私は少しどきどきしていた。

 授業参観の日、お父さんは来なかった。その代わりに叔父さんが来て「落ち着いて聞いて欲しい」って、私と眼があうようにかがんだ。
「お父さんが駅の階段から落ちたんだ。頭を打ってしまったみたいで、いま病院にいる。僕から先生に話は伝えてある。このあとの授業は休んで、一緒に来なさい」
あたたかい日射しのなかを、私たちは真剣な顔をして歩いた。病院の待合室で、お父さんが目覚めるのを待っていたけれど、お医者さんが何度も頭を下げながら「もしかしたら、ずっと眠ったままかもしれません」と言った。私は叔父さんの後ろでこっそり泣いた。星空がこんなにまぶしく見えたことはなかった。
「リリィ、リリィ」
家に帰ると、すぐに二階へあがって、彼女を呼んだ。
「……どうしたの」
「お父さんが死んじゃうかもしれない」
私の声はひどく震えていて、自分のじゃないみたいだった。
「ねえ、いつか教えてくれたでしょ。妖精たちはみんな不思議な力がつかえるんだって。だったら、お父さんを目覚めさせるくらい、できるんでしょ」
リリィがこたえてくれるのを、ずっと待っていた。彼女はなにかを言おうとしてはためらっていたけれど、結んでいた唇をそっとゆるめた。
「……扉をあけて」
「え、でも、それは」
人間と妖精が交わってはいけないことを教えてくれたのも、あなたでしょと、私は言いそびれた。
「いいから、はやく開けて!」
ふれたら痺れてしまいそうな気迫におされて、ふりこの扉をあけた。花の香りといっしょに、冷たい霧が足もとになだれこむ。ああ、そうだったんだ、と私は思った。古時計の硝子越しにふりこが見えていたのは、カムフラージュってやつで、まやかしだったんだ。妖精の国は青いひかりが、たぶん夜光虫がちらちらと舞い、つゆが青い植物のうえをすべっている。奥は薄みどり色の湖で覆われていて、そのさざ波に溶けこんでしまうように、リリィは立っていた。私をじっと見つめながら、翅の一片を皮ふからはがしてゆく。
「これを水に溶かして、飲ませるのよ」
「でも、リリィは? 翅がなくなって、妖精の国にいられるの?」
「あんたのためじゃないわ。すべて誠のためよ」
誠っていうのは、お父さんの名前だ……私は翅をおらないようにそっと手のひらにくるんで、もう一度、病院へ向かった。翅は水に溶かすととろみを帯びて、きれいな桜色に染まった。白桃の匂いがする。お父さんの乾燥した唇に、そっとコップを押しあてた。こぼれないように傾けると、少しずつ分厚い瞼がひらいていった。
「……お母さんの後ろ姿を追いかけていたはずなんだ」
お父さんはうつろに天井を見つめながら、そうつぶやいた。
「でも途中ではぐれてしまった。ひとごみにまぎれて、どこかへ、ひとりでどこかへ行ってしまったよ……それでよかったんだ……お前に会えなくなるところだったからな」
「お父さん。リリィがお父さんのことを助けてくれたのよ。知っているでしょ。妖精の、古時計の」
「何のことだい。妖精って、そんなお伽噺を、まだ信じているのかい」
お父さんは点滴のささった腕をのばして笑う。私もお父さんの手をとって笑った。でもそのとき、あの古時計の針がとまったのを、私ははっきりと聞いていたんだ。

※この物語はTwitter企画 #古時計に潜むお伽話 に寄稿したものです。

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