みんな被害者になりたがっている

 先月25日、白人警察がアフリカ系アメリカ人の男性を殺害してしまった事件を発端に、アメリカ各地でデモ活動が起きた(今も続いている)。正当に人種差別を訴えているひとが大半だと思うのだが、なかには抗議しているひとたちに乗じてただ暴れたいやつ、抗議がヒートアップして暴力に発展してしまうやつがいる。こういうひとたちは、はたから見ると加害者に他ならないのだけど、たぶん当人は自分を被害者だと思いこんでいる。

 なんというかこの、自分も被害者だといって疑わない姿勢は、非日常なときばかりに起きるわけではなくて、例えば、最悪だと話題になっている映画をあえて観に行こう、と思いたったときにも発動するような気がする。クソ映画が好きなひともいるから、一概には言えないし、クソの定義もそれぞれだけど……要はそのひとにとって、何の味もしない映画といったらいいのだろうか。
 本当はそんなの観に行かなくても、別の好きな映画を観に行ったり、無駄になることが分かっている時間を他のことに、自分のためだけに使ってもいいはずなのに、あえてそれを体験する。これって、その映画がどのくらいクソなのかが気になるから行っていると、そのひとたちは思っているかもしれない。でも心の底では「こんな酷いものを観てしまった自分は可哀想だ」と悦に入っているのでは……と思ってしまう。観に行ったのは自分自身なのに「こんな作品をつくりやがって」という被害者意識に浸ることができるから。

 あらゆる事件や災害は刹那的なものだ。起こったと思ったら、もうすでに終わっている(実際に被害に遭ってしまった方の身体的・心的外傷や、町の復興などを考えると、全然、刹那的ではないのだが……それは、ごめんなさい、ちょっと置いておいて……)。被害者でいたいひとにとっては、それが悔しい。流行りでも風潮でもないのに「乗り遅れた!」と思っているのだ。そして現場に行くことで、間接的に被害を共有する。本当の被害者を抜きにしたままで。

 私は別に心理学を習っているわけではないし、そういうひとにどういう心理が働いているかなんて、憶測でしかない。でもこの意識はたぶん誰にだってあるし、私にもある。どう飼い慣らしていったらいいのかを、考えなきゃいけない。そうじゃなきゃ、この意識はひとの目を曇らせてしまう。

 例えば、さっきの映画の話にもどるけれど、わざわざ最低だと言われている作品を体験して、この被害者意識をもったまま、ネットに発信するひとたちがいる。画一的にクソなところをなじって、それを動画なり文章なりで発表するって、とても気持ちのいいことだと思う。でも語るべきは、それは本当にクソだったのか、クソだとしたら「何故なのか」「どうしてそう思うのか」「何が原因なのか」などを客観視して、考え抜いた結論だ。というか、フラットな状態であれば、その作品がどうであれ、自分の言葉で語ることができるはずだ。「この作品はクソだ」という情報に触れれば触れるほど、自分の言葉は埋もれてゆく。かき集めた情報のなかの言葉を扱うことでしか、手垢にまみれた表現でしか、考えを発信することができない。被害者でありたい意識がひとの目を曇らせるというのは、こういうことだ。これこそが問題だ。

 だったらどうしたらいいのか、ということだけど、ひとによって感情の向き合いかたが違うので、本当になんともいえない……ただ自分の取りいれた先入観を疑い続けなければならないということだけは分かっているけれども……。

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