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【短編】傷口に染みる

 くらりときてしまうほどの、血の匂いだった。向かいの患者がまた、自分で自分の身体を切って、ぎゃあぎゃあ喚いている。

「ほら、よく見てくれ、この血を! おれは人間なんだ!」

 毛布を蹴りあげて両足を突き出す。脛から指さきにかけて、無数の葉が生い茂り、そのなかに、ぽつぽつと椿の花が咲いていた。彼を押しつける看護婦の腕が、ひとつ、またひとつと増えてゆく。そのうちのひとりに、僕は尋ねた。

「あの、外に出たいんですけど」

「いいよ、園のほうへ行かなければ」

 ちらっとこちらを見て、彼女は不機嫌そうだけど答えてくれた。

「分かっています」

 僕は寝台から起きあがり、冷たい廊下を歩く。看護婦にはああ言ったものの、近頃はもっぱら植物園のほうへ出かけている。あまりにも退屈だから。
 それにしても向かいの患者は馬鹿だなあ、と思いながら前庭へ出る。植物になるのを遅らせたかったら、寝台でじっとしているほかないのに。僕たちの花粉は特別で、傷口に受粉するとそこから花が咲いてしまうことがあるんだ。って、院長の話、聞いてなかったのかな。
 この病院と植物園はレンガの壁で区切られているが、実は、隅がくずれていて、ひとひとり通れるくらいの穴がある。そこを抜ける。今のところ誰にもバレてはいないはずだ。
 植物園では、たくさんのひとたちが虹か花火でも見るように、ぼんやりとした眼を木々に向けている。しなやかな幹に、ゆたかな葉に、飾りのような花たち。僕もいつかは、ああなるんだ。今はまだ、ひとの形が残っているから、しばらく「治療」を続けなければならないけれど。
 ふと、僕の脚をなにかが掠めた。黄色い布がチカチカと舞う。よく見れば女の子が転んでいた。

「だいじょうぶ?」

 と差しのべた手に、柔らかな指さきが重なる。引っ張りあげると、彼女の膝から血が滲みでているのが分かった。

「もっとよく、見せてみて?」

 そう言いながら、僕は自分の右腕に咲いている肉厚な花びらを、彼女の傷口にすりつけていた。自分でも、どうしてこんなことをしてしまうのか、分からない。そんなつもりもないのに、ぐっと前のめりになる。まるで口づけを交わしているようだ、と気がついた途端に、女の子が身をよじった。

「ごめん!」

 勝手に身体がはじけて、そのまま駆ける。彼女にも同じ目にあってほしいと願ってしまったのか、僕は。なんてことをしてしまったのだろう。願ったときには、もうすでに、それを叶えようとしてしまっているなんて。
 病室に戻ると、向かいの患者は穏やかに眠っていた。葉ずれのような寝息を聞きながら、僕は震えた身体を落ち着かせようと、寝台に入る。乾いたお日様の匂いに包まれても、ひとりでに出てくる涙を止めることはできなかった。

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