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仕事について思うこと

私は小説を書くのが好きで、大学では文芸創作を学んだ。「文芸の勉強は就職に不利だし、社会に出ても役に立たない」という言葉を学校の内外から聞きながら過ごしていた。当時の私は、家業に入るつもりだったこと、家訓が「好きなことをやって生きろ」だったこともあり、馬耳東風とばかりに聞きながしていた。

家業に入って一年が経ったころ、私は進路に不安を感じるようになった。一緒に小説を書いていた友人はみな就職していき、似たような生活を送っている人は誰もいない。

一度「社会」に出たほうがいいのではないか? そんな気持ちも働いて、デザイナーとしてほんの短期間ながら会社員を経験した。短期間になったのは、すぐにやめてしまったからだ。

社内の人はもちろん、クライアントに対しても「この人は、ものの言い方を知らないのだろうか?」「お礼ひとつ、まともに言えないのだろうか?」と思うことは多かった。「会社員であること」、もっと言うと「普通であること」は、人間性を担保しうるものではなかった。

現在はまた家業に戻った。会社員だったときよりも時間に余裕があるし、自分の好きなことに取りくむ時間もあり、とても恵まれている。いまは新作の小説を執筆中だ。大学卒業後、数年間は何も書けない時期がつづいたが、数ヶ月前から少しずつ書けるようになった。感覚を取りもどす目的もあるので、長さや完成時期を定めているわけではない。でも、毎日、少しずつ書く時間をつくっている。ふたたび書けるようになって、どこかになくしてしまったパズルのピースが出てきたようで嬉しい。

家業に関するセミナーや展示会に足を運ぶと、だいたい何かしらのプレゼンを聴く。残念ながら、9.5割はつまらない。とくに、大企業の上役は、パワーポイントのスライドを操作するだけのために社員を引き連れ、ものすごくつまらない話を一時間して平然と帰っていく。聴衆のほうを一切見ず、後ろに掲げられたスクリーンを見つめたまま話しつづける人もいた。いい加減すぎると思う。自分の生活や会社の印象が揺らがないからこそ、許容されることだ。話し手の人生を考えれば、それだけの基盤がある生活を送れるのは素晴らしいことだ。うらやましいとは思わないが。

家業の仕事が好きだったわけではないけれど、「ここでやっていくのだ」と腹をくくってからは楽になった。もっとも、家業という外圧があってこそくくれた腹ではある。現代は自由に生き方を選べるが、だからこそ「ここよりもっといい場所が、いい生き方があるのではないか?」という疑問がつねにつきまとう。自分の拠点を決めると「ここよりもっといい場所」を目指さなくなり「いまいる拠点をもっとよくするにはどうすればいいのか」を考えるようになる。これが、自分で自分の人生を引きうけるということなのかもしれない。

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