今こそ『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』新井紀子
AIの論議が(、)かまびすしい。この本の始まりの一文。
「かまびすしい」は、やかましい、うるさいを意味する古風な言い方です。
AIにできるのは、主に統計的なパターンによって先読みする事。したがって、シンギュラリティによって、自己増殖する生命体のようなものにはならない。
AIは「かまびすしい」のニュアンスは理解出来ないが、文脈はわかるように見える。
この本が発売された2018年は、大昔のように感じるが、いろんな事があったので長くも短くも感じる。
時間の感覚、それがAIには無いのだが、あるはずのものがなくても人間のような存在に見えてしまう。
気になるのはAIに奪われる仕事達です。筆者は、人間はAIでないので想像する事。自己増殖する新しい仕事によって対応可能という。
これは希望でもあって理想でもある。仕組みさえ整えば、止まっていた時間は動き出し、列車は進み出し、私たちは歩み続けられる。
ニヒルな悲観が、ライトな楽観に負けない限り、絶望は存在しない。
希望はある。
さて、なぜ。冒頭で「かまびすしい」という文章が置かれたか。
当時のAIをめぐる議論が、表層すら到達できず、企業がその文脈を全く理解できなかった。
これは過去なので、現在ではあてはまらないはず。はずです。
更に、それどころか基本的な文章読解力に問題がある点が、人間らしさの重大な欠点なのかもしれないという指摘です。
教育課程を含む、私達の経験が貧しいものなのかもしれない。そんな事です。
このような指摘が、かまびすしく感じないようにしたいですと反省。
音読とか、再読とか、時をかける読書。時間を掛ける行為に向き合わなければならない。
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