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寝香水

 自分のうめき声で目が覚めたのはもうこれで何度目だろう。
カーテンの隙間から下弦の細く尖った月が辺りの漆黒の空をすこしだけ碧くさせているのが見える。
ベッド脇の目覚まし時計に目をやると、真夜中の2時半だった。
ベッドサイドの灯りだけ点けて、キッチンへと向いグラスに半分だけ水を入れ、タバコとライターを持ってベランダに出てみる。
カーテンから覗かせていた空よりかは幾分か明るく感じたが、静けさのせいだろうか、空の色はまだ深い闇を示していた。
グラスの水をひとくちだけ飲み、煙草を1本吸ってベッドに戻った。
妻を半年前に病気で亡くし、こんな儀式のような夜を毎日繰り返している。
大切な物を失う痛みは時が解決することも、この歳になればよく理解しているつもりである。
しかし伴侶を喪う事はそれとは全く異なっていた。自分の身体の一部、いや生きてきた人生の半分を失くすのと同じ喪失感かもしれない。
日々の仕事を淡々とこなす事で、できるだけ考える事を先送りにし、濁った水を薄めながらここまで過ごして来た。
何人かの友人も心配してくれて声をかけ、食事に誘ってくれたが、現実の輪郭をよりハッキリと感じる事になりそうで避けてきた。

 仕事が休みの日、気分転換に散歩に出かけた。駅前の商店街の脇の急な坂道を登り、坂の途中にBarを見つけた。何度も通った事のある場所だが、今まで見落としていた。おそらく生活のサイクルの中で、住んでる街のBarを訪れるという選択肢を今まで持ち合わせていなかったのだろう。
昼間で中の様子は伺えなかったものの、正統派の佇まいだったので、一度出直して夜に店を覗いてみることにした。
 商店街の灯りがともりはじめ、ゆるやかに風が吹き始めたころ、坂を登り店を訪ねた。
店内は5〜6人ほど座れるカウンターにテーブル席が3つとこじんまりした店である。カウンターにはきちんとした服装のバーテンダーが接客している。
カウンターに座り、マルスのシングルモルトをハイボールにしてもらい飲んでいた。
バーテンダーは一人で飲みにきた私にほどよく声をかけ、邪魔にならない程度に話しかけてくれた。久し振りに飲んだせいと彼の粋な計らいで気分が少しだけ晴れやかになり帰宅した。
それから何度か私はその店に顔を出すようになった。
常連の客とも少しずつ会話を交わすようになっていた。音楽や映画、たばこの銘柄や食べ物の事、大半は一般的なとりとめもない話しだったが、私には都合が良かった。

 その日は店のナポリタンで夜食を済ませ、そのまま飲もうと思い、いつもより早い時間に店に向かった。店の扉を開けると先客がカウンターでコーヒーを飲んでいる。長い黒髪と紺の地にドットが配われた上品なワンピースを着こなした女性だった。初めて見かける顔である。
私はナポリタンを食べ終え、メーカーズマークをダブルのロックで頼んだ。
グラスが運ばれ、タバコに火を点ける前に彼女に吸っていいか尋ねると、彼女はニコッと頷いて主人と同じタバコだと言って話しかけてきた。
初めて訪れたが、あまり酒に馴染みが無いこと、いつも気になっていたけど勇気を出して店に入ってみたことを彼女は明るいトーンで話した。彼女の笑う時にできる目尻の皺が愛らしさと人懐っこさを際立たせていた。
それから何度か店で顔を合わせるうちに彼女と親しくなった。
私は外に飲みに行く機会が増え、他人と会話を交わすうちに心の中の重りは少しづつ変化を見せていたが、依然として夜中に目が覚める日々は続いていた。

 晩夏の平日に私は仕事を休み、電車で鎌倉の海へと向かっていた。その日は一年前妻と最後に外出し鎌倉へと出かけた日だった。
電車の中で色々と思い出し感傷に耽っていると、少し後ろの座席で花束を胸に抱いている女性が声をかけてきた。Barで出会う彼女だった。
私は彼女の座っている席の前まで移動し、挨拶をした。次の駅で彼女の横が空いたので座り、どこへ行くのか聞いてきたので、私は初めて妻のことを他人に話した。彼女もまた自分のことを話し始めた。3年前にご主人を亡くし、今日は命日で鎌倉の墓参りに行くとのことだった。
話す事に抵抗のある話題であったが、彼女への好意とBar以外の場所で出会った偶然が気持ちを幾分か軽くし、違和感なく話せた。
 二人は鎌倉の駅でおり、彼女は私に付き合って海まで歩いてくれた。
その後私は彼女のご主人のお墓参りに付き合い、一緒にどこかで夕食をという事になった。
鎌倉の精進料理の店を見つけ、そこに一緒に入った。
和室の個室で食事をしながら、それぞれの身の上を話した。
彼女は時折涙を浮かべ自分の夫の事を話し、また私の妻の話しを聞き、私に共感してくれた。
店を出る頃にはすっかり陽は落ち、お互いを知りすぎて他人には思えなくなっていた。お互いの核の部分を共有し合うと、人は色々と錯覚を起こすものである。
むしろ最初からすべてが錯覚で、遠くの不確定な数少ない真実の光を求めて人は揺らいでいるだけなのかもしれない。

 帰りの電車では2人共無言だった。
互いの好意に静かに着火した炎は2人の間の静寂と電車の揺れる音を燃やし続けて、時間と共に熱を帯びた。
2人は互いの住む街の駅を通り過ぎ、三つ目の駅で降りた。
人気の少ない駅の改札を抜け、川沿いの道を歩きながら彼女に話しかけようとした時、彼女が後ろから抱きついてきた。
「ごめんなさい」小さく消え入りそうな声で彼女はつぶやいた。
私は振り向き彼女を抱きしめていた。
彼女の肩は震え、長い髪の毛先がわずかに踊っていた。
服の上からも彼女の体温が伝わり、彼女の首筋から何とも言えない甘くせつない香りが立っていた。
時折吹く風に混じって彼女の香りは、私の身体の奥の部分まで沈んでしばらく居座った。五感で感じとった情報はその人自身を正確に表すことがあり、どんな言葉でも表現しきれない事を一発で伝えてしまうものである。
彼女を抱きしめた腕に少し力が入った時、遠くの方からこちらに向かってくる自転車のライトに気づき、二人は慌てて体を離した。
川面に反射する街灯の明かりに照らされた顔を互いに見合わせ笑った。
照れくささと昂った感情の入り混じった心を冷ましながら、繋いだ手を子供のように振りながら駅への道を引き返し、また電車で駅を三つ戻りその日は別れた。

その後何度かBarに行ったが、彼女を見かけなくなった。
いつもの席でタバコをふかしながら酒を飲んでると、バーテンダーに小さな手提げ袋を渡された。
家に帰って袋を開けてみるとTre'sorと書いた小箱と手紙が入っていた。
「この間はごめんなさい。しばらく顔を合わせるのが怖くて……
店に行くまでもう少し時間をください」

箱の中には琥珀色の香水が入っていた。
瓶を開けると、薔薇の香りが広がり甘くフルーティーの奥に官能的な深みを持った香りが部屋の中を包んだ。
川沿いの道で彼女を抱きしめた時の情景が鮮明に蘇り、彼女の温もりや髪の毛1本1本の質感までもが浮かびあがった。そして互いの持つ哀しみや苦しさも溶け合った感情が湧き上がってくる。
その香りはベッドに入っても暫く鼻腔の奥に甘く漂い、胸を締めつけて離さなかった。
その日を境に私は寝る前に瓶を開け少し香りを部屋に解き放ってからベッドに入る様になった。

そしてBarの彼女とは二度と会えないような気がしていた。

                      END

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