見出し画像

セリム・セスレル

トルコ:ターキッシュ・クラリネットの名手(3)

超絶技巧のシーツ・オブ・サウンド

歴史に残るターキッシュ・クラリネット名プレイヤー紹介。第三回目はセリム・セスレル(Selim Sesler)、筆者がこの楽器を知るきっかけとなったミュージシャンであり、テクニカルな面ではおそらく最高峰のレジェンドだ。

"キレミット・バジャラル" アルバム「Keşan'a Giden Yollar」(ケシャンへの道, 1999年, KALAN)

ロマ系住民が多いことで知られるバルカン半島東部のケシャンで、1957年セスレルは生まれた。彼の一家もまた、ロマ音楽家の家系だった。父親はズルナ奏者(チャルメラのような楽器、トルコ軍楽隊メフテルでの演奏で有名)、叔父もクラリネット奏者だったそうだ。

彼ら一族は1923年のギリシャとトルコの住民交換により、ギリシャから移入している。トルコ独立戦争・希土戦争後、両国は住民の信仰に基づき、トルコ内のギリシャ正教徒と、ギリシャ内のイスラム教徒を交換した。

一種の理想に基づいてはいたが、しかしそれは、両国合意の上での追放政策でもあった。結果的には多数の難民を出し、多くの悲劇をもたらした。トルコの音楽を語るうえで、政治的問題は決して避けて通る事ができない。

10代半ばでクラリネットを始めたセスレルは、すぐにトラキアやイスタンブールのバンドで演奏するようになったという。やがて1980年代になるとイスタンブールに本格的に移り住み、音楽家として活動を始める。

彼はカンドゥラルやエルキョセのようにトルコ放送局(TRT)で働くことは無かったが、連日バーやレストランで演奏しつつ(晩年まで、バーに行けば容易にセスレルに会うことができたそうだ)、次々と世界的に高い評価を受けるアルバムを制作していった。

カナダ生まれの歌手ブレンナ・マクリモンを迎えたアルバム「Karslma」(カルシュラマ, 1998年, KALAN)。

名作「Anatolian Wedding」(アナトリアン・ウェディング, 2006年, Doublemoon)。

遠く離れた土地に嫁いだ女性の気持ちを歌った"ユクセク・ユクセク・テプレア"。

トルコ各地の結婚式で演奏される曲を集めながらも、ベースギターや女性歌手を導入し、非常に洗練されたアルバムになっているのは、イギリスのパンクシーンから出てワールド・ミュージックで功績を残したプロデューサー、ベン・マンデルソンの手腕か。

また、2005年の映画「クロッシング・ザ・ブリッジ」にも出演を果たしている。

"クルディリ・ヒジャーズカル・ロンガ" アルバム「クロッシング・ザ・ブリッジ〜サウンド・オブ・イスタンブール〜オリジナル・サウンドトラック」(2005年, ビクターエンタテインメント) 

彼の演奏の本領は即興、それも尋常でない高速即興フレーズにある。

スクリーンショット 2021-04-29 1.30.07

上記は『TÜRK MÜZİĞİ KLARNET İCRÂCILIĞINDA SELİM SESLER』という論文に掲載された、セスレルの即興演奏である。この論文『KLARNET İLE TAKSİMLER』 (198?)というアルバムが、初期セスレルによる匿名演奏であることを指摘している非常に興味深いものだ。

筆者もセスレルのフレーズをコピーするため譜面化を試みたことがある。いくつかの曲を50%の速度で再生してみて驚嘆したのは、リズム、音程、音色、速度を半分にしても全く破綻がないことだった。

つまりセスレルはフレーズを倍の速度にして、即興のなかに詰め込んでいたのである。イギリスのガーディアン紙は、彼をクラリネットのジョン・コルトレーンと評したが、まさにトルコのシーツ・オブ・サウンドと言うべき様相だ。

セスレルの技術的追求は、他者の追随を許さなかった。彼以降のターキッシュ・クラリネット奏者は、テクニカルな面を強調するのではなく、より"スムーズ"な方向を目指すことになる。

2014年5月9日、セスレルは周囲に惜しまれながら、持病の心臓病の悪化により亡くなった。まだ57歳だった。

---------------------------------------

〔参考文献〕

Selçuk ÖZTÜRK『TÜRK MÜZİĞİ KLARNET İCRÂCILIĞINDA SELİM SESLER』(2018)
https://www.idildergisi.com/makale/pdf/1515493767.pdf

Boja Kragulj『The Turkish Clarinet : Its History, an Exemplification of its Practice by Serkan Çağri, and a Single Case Study.』(2011) https://libres.uncg.edu/ir/listing.aspx?id=7442

Sarah Elizabeth Korneisel Jaegers『Turkish Classical Clarinet Repertoire: Performance, Accessibility, and Integration into the Canon, with a Performance Guide to Works by Edward J. Hines and Ahmet Adnan Saygun.』(2019) https://etd.ohiolink.edu/apexprod/rws_olink/r/1501/10?clear=10&p10_accession_num=osu1555635997664089&fbclid=IwAR26b2n86jW117T-inmn2ViSKWTdaPPOn0qwm7G_dkhb4uQCh7d0xmngWK4

関口義人『トルコ音楽の700年 オスマン帝国からイスタンブールの21世紀へ』 2016年 DU BOOKS ISBN 9784866470061

関口義人『オリエンタル・ジプシー』2008年 青土社 ISBN 9784791764297

---------------------------------------

(1)バルバロス・エルキョセ(Barbaros Erkose, 1936-)
(2)ムスタファ・カンドゥラル(Mustafa Kandirali, 1930-2021)
(3)セリム・セスレル(Selim Sesler, 1957-2014)
(4)番外:ターキッシュ・クラリネット前史
(5)シュクリュ・トゥナール(Sukru Tunar, 1907-1962)
(6)セルカン・チャウリ(Serkan Cagri, 1976-)
(7)ヒュスヌ・シェンレンディリジ(Husnu Senlendirici, 1976-)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?