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言葉は、海をこえて紙をこえて

最近、英語の原著と日本語の翻訳本を片手に一冊づつ持ちながら交互に読んでいます。

時間は倍かかるし、はたから見ると割とおかしな光景なので少し大変です。なぜ、このように読んでいるかというと単純に、『そのままの文章で読んでみたい!』けど『英文だけでは意味がわからない』からです。英語勉強して、小説読めるようにという意気込みはなくはないのですが今すぐ読みたいのでこの方法を取ってます。

読んでいるのは、JDサリンジャーのcatcher in the rayと村上春樹訳のキャッチャー・イン・ザ・ライです。サリンジャーの書いた言葉がどうしても読みたかったのです。村上さんの翻訳も面白くて表現は(おそらく)とても忠実で、交互に読んでも問題なく文の意味を追えます。

 最近は米文学にはまっていてよく翻訳本をよく手にしています。
しかし今までは、翻訳あえて読んでいませんでした。
『作者の意図はその国の言葉じゃないとわからない!』
とか
『なんだか言い回しがくどくどしくて慣れない』
とか。
思っていたのですが、読んで見ると結構面白い。

でもその人生をかけて書かれた本によって著者のその生き様に惚れ込んでしまって、その人の言葉に触れてみたくもなりました。
この交互読み方によって英語だけで本が読めるようになるかは随時更新していきますが、、、

私たちがなぜ本を買ってその物語を読むのかって、美容師に髪を切ってもらおうとするように、本に気持ちを代弁してもらったり、感情を動かしてもらおうとしているからで、作家の人たちは要するに言葉のプロたちでその言葉を求めているからだと思うのです。

 翻訳された文章を読んでも大切なことはしっかり伝わってきます。ただ、作家の作品とも言える一つ一つの言葉を大切にしたいなら、原著も読んで見ることも楽しいことだなと今感じております。

また、つの物語の複数の翻訳本を読むと、特に書かれた時代の言葉遣いが変わってきます。
昔の訳語を読むと堅苦しく感じた人物が現代語訳だと少しラフに感じられたりします(ジェネレーションギャップでしょうか?)。

どんな言葉にも形にしたものには価値がある!

原著も翻訳もみんないい。

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