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死んだカラスと、ヒトの遺伝子

ススキが生える海岸で空を見ていた。海辺の空は高く、波がテトラポットに当たって砕ける音がした。心地好い潮風に吹かれながらまどろんでいると、鳶がカラスに纏わりつかれているのが目に入った。

羽を大きく広げ、優雅な凧のように空を舞う鳶と、その周りを、しゃがれた声で鳴きながら激しく飛び回る二羽のカラス。その異様な様子に目を凝らすと、どうやら、鳶が幼いカラスを捕らえ、それを二羽のカラスが取り返そうと威嚇しているようであった。

数分の争いの後、鳶は遂に獲物を手放し空高く舞い上がっていった。捕らえられていた子ガラスは真っすぐ地面に落ち、乾いた車道に投げ出される。
二羽のカラスは羽を広げながら急降下し、子ガラスの元へ舞い降りる。片方のカラスが、子ガラスの周りをピョンピョンと跳ね回り、もう片方は、少し離れたところでその様子をじっと伺っている。子ガラスは動かない。
しばらくすると、じっと様子を伺っていた片方が空に舞い上がり、もう片方もそれに続いた。鳶との死闘を繰り広げた二羽のカラスは、救出した子ガラスを残しどこかへ飛び去って行った。急いで近付いてみると、子ガラスは胴体から血を流し死んでいた。

親子だったのだろうか。死闘を繰り広げてようやく我が子を助けられたのに、死んだと分かったら放置して去っていくとは。
もしかしたら、幼き子を殺めた鳶に復讐を果たしに行ったのかもしれない。そう思い至り、いや、そんな筈はないなと考え直す。
普段目にする野良カラスの姿からは想像がつかないほど小さな体に思いを馳せる。きっと将来は、綺麗なカラスになっただろうに。

これが人間社会で起きたことだったら。きっと、マスメディアはこぞって鳶を悪者にし、平凡なカラスの親子を襲った悲惨な事件として報道するだろう。鳶のSNSは大炎上、特定班と呼ばれる人物が関係者の個人情報を晒し上げ、無関係の第三者によるくだらない論争が繰り返される。子ガラスの死体遺棄現場には献花台が設けられ、寄せ書きや千羽鶴、子ガラスが生前に好んだ品が供えられる…

死者のため、と称した、本質的には全く意味のない数々の行為が繰り返される。誰かが死んだその後も生き続ける、それ以外の誰かのために。

古来よりヒトは、死と遭遇すると、その喪失感から回復するための行動をとる生物である。例えばそれは慰霊であったり、供養であったり、仇討ちであったり、形は様々あるが、「死」を起因とする精神の状態異常から回復するため数々の“儀式”が、人間社会には組み込まれている。

わたしの知る範囲では、ヒト以外の動物の生活において、同族の死に想いを馳せる行為は存在しない。彼らにとって、死は生存の先にある結果である。仮にそれが他者からもたらされた死だったとしても、殺生は種として存続するために必要な本能であり、弱肉強食のサイクルの一環だ。報復などしないし、そのための労力はむしろ、自身が次の瞬間を生き延びるために使われているように見える。あの二羽のカラスと、死んで置いていかれた子ガラスのように。

誰かの生命の終わりに固執せず、自分が次の瞬間を生きることだけに執着する。それが出来たら、どれほど楽だろう。
わたしをのこしていってしまったあの人を、想わずに、いられたなら。

しかし、もし我々に死を哀しむ脳機能が備わっていなかったら、きっと利益のための同族間での殺し合いを繰り返し絶滅するのではないかと感じる。我々人間は、種として存続するためではなく、利己的な目的のために生命を終わらせられる生き物なのだから。
喪われた命に想いを馳せるのは、ヒトが種として絶滅しないために組み込まれた遺伝子なのかもしれない。

子ガラスの遺体に顔を寄せる。
遠目からはゴミ袋のように見えたのに、羽も嘴もちゃんと揃っている。
その美しいからだをハンカチで包み、路肩の低木の根本にそっと寝かせる。ここなら、車に轢き潰される心配はない。他の生物の餌になるかもしれないし、ゴミ収集車に回収されて安全に焼いてもらえるかもしれない。
初めて触るカラスのからだは柔らかく、香ばしいにおいがした。

――次に生まれてくるときは、もっと長く、生きられますように。

そっと目を瞑り手を合わせると、妙に心が落ち着くのだった。

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