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『Modern Alchemy(モダン・アルケミー)』Vivian Sassen(ヴィヴィアン・サッセン) and Emanuele Coccia (エマヌエーレ・コッチャ)

本を愉しむための本. 本の享楽にただ浸かりたいような人間には, 今回の選書はおすすめだ.

この本の頁をめくっていく読み手が経験するのは, “知”を編んでいくプロセスである. この本は, オランダの写真家のヴィヴィアン・サッセン, そしてフランスの哲学者エマヌエーレ・コッチャの共著である. 本に中毒のある人間なら, きっと本に浸かるということが, テキストを読む前から, 本を開く前から始まっているということはご存知だろう. 本作品の体験もサッセンのイメージによる先導で始まる.

と, その前に少しだけこのふたりの気鋭の概要に触れておいたほうがいいだろう.
まずはヴィヴィアン・サッセン. 彼女は, ファッションとアートの領域で実験的なイメージを輩出し続けている気鋭の写真家であり, アーティストでもある. 彼女の場合, どちらの領域を主戦場としているか, 一概に明言することは難しい. 双方の領域で, 独自に革新性を提案し続けているからだ. どちらの領域でも彼女は本領を発揮している. 今回掲載されている作品は, ほとんどが彼女の”特徴的”なコラージュによるイメージ群で占められている. これらは, アートの色合いが濃いものばかりだ.
そして今回, サッセンと共にあのうつくしい作品世界を構築するのがフランスの哲学者エマヌエーレ・コッチャである. 彼の活動や著作物の詳細にはあまりアンテナを張ってこなかったので主体的な関心を混ぜた紹介はできないが, どうやら専門は中世哲学であるらしい. 現代写真で粋のいい作家のデュオに”中世”という少し縁遠さを感じさる時代を研究している人間が付き合うのはおもしろい. 実際この本ではそれがいい反響和音を生み出している. しまいにサッセンの写真とコッチャのテキストによる連続性シークエンスが古風な魔性さを再現しているのだ. もしこれが現代美術や現代思想が専門の批評家だったら, あの魔力alchemyは醸成されなかっただろう. 彼女のイメージにテキストが追従することになっていたはずだ. コッチャのテキストはそれとは違って, 独自の姿勢を保っている. 近年では, コッチャの著作は邦訳も出ている. これを機にわたしも手にとってみることにしたい.

さて, この記事では, ふたりのIntellectualの共作を覗いていくことになるわけだ.
この本に目を通して, あらためてサッセンのイメージの訴求力は強い. まあ, 実際はイメージが語りかけてくるというよりは, 横たわっているという感じなんだが・・・人間の感情のメカニズムを逆手にとったような作為的な乱暴さはそこにはない. 彼女のイメージを前にすると, 読み手わたしたちが, 佇んでいるイメージに焦がれることになる. 彼女のイメージの肢体は, わたしたちに対して動物的な誘惑をするようなことはしない. 鑑賞者わたしたちの裡に在る, “主体”を起こすと言ったほうが近いだろう.

サッセンのコラージュは一般的なイメージメイキングのための合成とは異なる. サッセンのコラージュのなかでは, 多様な表象の”名残り”が”意思を持っている”かのように絡みあっている. そして, 主体わたしたちもそこに参加したくなってしまうのだ. 一体, この魔力の正体はなんなのだろうか.
コラージュに限らず, サッセンの特徴的なモチーフが《かげ》だ. この本に載っているイメージ群においても, 《かげ》の介入は散見される. 写真家が影を利用するのはそう珍しいことではない. だが, 彼女の《かげ》は演出のための影とは異なる. それは表象としての《かげ》であり, ”視えない”レイヤーを孕んでいる. 不可視である超現実シュルレアリスムが現実と戯れるための”からだ”なのだ. 彼女にとって写真は超現実を表現するための手段ではない. そのイメージ群の《裡》では, 現実と超現実は等価な”からだ”をすでに与えられ, 交流している. これが魔力の正体のひとつ目である.
もうひとつあると思っている. それは, 鑑賞者わたしたちが異物に”親しみ”を抱いてしまうことだ. フェミニズムを題材としたイメージメイキングにおいて, 性の象徴である身体をモノと等価に扱うことは, 最近では普及した技術になっている. しかし, そのほとんどは身体を無機物/モノのステータスに降格させている. サッセンはそれと逆のことをおこなう. モノを《からだ》へと成熟させるのだ. モノはわたしたちと同じ感覚を実装されそこにいる. いわば, “親しげな異物”へと変成transformしていると言えるのではないだろうか.

写真好きであるためだいぶサッセン贔屓の紹介になってしまった. しかし, コッチャのテキストが与えてくれたボキャブラリーが自分の感覚をこの記事へと整理するうえで, このうえなく力になってくれた. そして, サッセンのイメージ, コッチャのテキスト, そして体験した感覚を, さいご読み手の《裡》に着地させてくるのもコッチャのことばである.

結局のところ, サッセンとコッチャどのような地平を共有していたのだろうか. コッチャのことばをかりれば, 知の物質化Intellectual Materialized. それとも知の変成Intellectual transformationのほうが良いだろうか. ふたりが共有しているのは, 知の物質化が, イメージやテキストの創造が, 少しずつでも世界を変成していくという確信である.

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