y.kobayashi and so on | "みる"の質感

写真を中心に

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写真を中心に

    最近の記事

    定点としての死者:ミシェル・フランコ『ニューオーダー』

    死者を定点に暴力を撮る。ここまで登場人物が主人公も含めて、”死”を準備させてもらえない作品もなかなかないのでは。この作品では、人間の生命の扱いにドキュメンタリー的な残酷さがこめられているのだった。 まるで、パチンとスイッチを切るかのように彼女の命の持続は途切れる。暴力は彼女の生をまるで陳腐な事実のように扱うのでした。そこに彼女が作品内における主人公かなんて、はたまたその彼女の母親かどうかなんて情状酌量の余地はないですから。ここでさえ人々の命は”陳腐化”されてしまう。そんな現実

      • ”みる”の質感 / アーカイブ前後

        ”みる”、”よむ”というしぐさの質感は、どのようなものであっただろうか。これがこの作品を構想する上での核となる命題となっている。これらは私たちに、すでに実装された”しぐさ”である。それは透明であり、情報が経路を流通することを阻害することもない。 ときにあるイメージが私たちを捕まえることがある。こんな時、私たちは新しい靴を履いて歩く時のように、”しぐさ”そのものに特異感を抱くことになる。インフラとなるようなしぐさは、透明になりありふれたものとして私たちの感覚に実装されていく。そ

        • «外在化された網膜»:八木夕菜「視/覚の偏/遍在」

          この視覚性の不安定さ。それを教えてくれうるのが、この展覧会だろう。展示されるのは、外在化する網膜とでも言えばいいのだろうか。客観的な事物は、網膜を通過し、脳につながる経路を、(おそらく)幾度と蛇行した末に、脳の中に«像»として投影される。まずもってして、<”そこ”に見えるオブジェクト(あなたにとってはこのテクスト)は、”ここ”に存在する>という純然たる事実を再認識する。 今回、オブジェクトとしての写真(下記参考イメージ)は、イメージが、連続する器官を通過する軌跡を結晶化した

          • «善悪のシミュレーション»:『モービウス』

            ”善と悪は、相対的な座標系でしかない”。それは、映画においてもリアルにおいても、ある種の共通規格となった。彼は、«力»を制御できずに力のないものを殺めることで自らを«悪»であると認識したり、自らと同等の«悪»を消化することでヒロイックに贖罪をしたりと、善悪の彼岸をめまぐるしく往来している。そんな倫理的分裂症ぎみの天才科学者が主人公の超人系映画『モービウス』。多視点世界を表現する映画の作品群ほど、それこそマルチバース化するプラットフォームの整理に有用ではないだろうか。表象の構図

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            • «イメージのサイボーグ化»

              写真はサイボーグ化しつつある。これは、僕がリコー社のデジタル出力機器を目にした時に感じたことだ。テクストの世界で、”僕”という表象は、随分と自己言及的になったのではないだろうか。この呼称を用いるだけで、テクストはナラティブな様相を帯びるのだ。現代において、”写真”という言葉は、それが取り扱う領分の広さに、忙しくしている。かたや、写真というオブジェクトの存在論的定義の修正に、かたや”それを見る”という行為の分解と拡張に。写真という言葉は、溶けかかっている。 その頑健な岩肌は、溶

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              • «都市»に関する覚書

                ますます«都市»というのは写真そのものに思えてくる。«都市»の風景は意味を過剰に着込んでいる。というより、風景が«都市»を着込んでいる。イメージが実装されすぎた風景。それが、私にとっては、現代の«都市»なのである。ある種の質量とまで転化した、ゴーストは、憑依した身体を消耗させるに至っている。なるほど、身体はデッドメディア化しつつある、と。 ”イメージには優しさが必要である”。傷んだ身体に、イメージが寄り添わなくてはと。そういったある種の”優しさ”をイメージに実装しようとする意

                • 《写真》を問う写真:吉田志穂『測量』

                  以前見たのはインスタレーションの形式をとった作品群であった。その空間を”それ自体”ひとつのイメージへと変えてしまう、身体全体を目へと変貌させてしまう体感型の写真としてのインスターレーションもいい。だが、やはりひとつひとつの”断片”としての写真へ順に没入していき、思考の順序をゆっくり可視化していくのも悪くない。 ”写真そのものの一次性とは何か”。吉田志穂の作品は、デジタルとアナログの表現が混在する中でその問いと並走する。 ”写真家はアナログとデジタルを往来する”。もう言わず

                  • 《しぐさ》としての物語: ケン・リュウ『紙の動物園』

                    未来のイメージから新たな”しぐさ”まで一気通貫して私たちに提供する。それがSpec-Fic(スペキュレイティブ・フィクション)の持つ機能のひとつだろう。そういった意味では、ケン・リュウもその種の作家であり、今回私が目を通した『紙の動物園』も読者の情緒を優しく撫でる。そして本を閉じた後、この動物園に収められた”しぐさ”のパッケージは私の振る舞いの中へと解き放たれている。〈折り紙〉〈息を吹き込む〉〈中国語で話す〉〈手紙〉etc。 この『紙の動物園』では、ある生命が他の場所に〈吹

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                    • 《*》:多層化する戦争

                      現代の戦争において最も強力な力はおそらくメディアだろう。次に来るのが、物理的武力である。メディアは一国を陥とす。現代において戦争にもレイヤーがあり、多層化しているわけだ。 そんな時代における、ロシア・ウクライナ問題について、私の目は"表象戦争"とも呼ぶべき現象に向いており、それを描写する行為は、多層的な戦争に少しでも水を差す試みのなかで、ほんの一面的な役割しか担えない。だが、私たちがもっぱら目にするの、スクリーン上で振る舞っている表象たちである。私は実際に《彼ら》の具体的な

                      • 《ここから解き放たれて》:『Meta Fair #01』

                        有楽町で催されている『MetaFair#01』に足を運んできた。#02があるのならその機会にもぜひ伺ってみたい。MetaFairと題しているが、これはリアルな場でのイベントである。正直、NFTという技術が透明になり、このバブル熱が冷めるに至らないと純粋な鑑賞体験の機会が失われてしまいそうで怖い。 NFTは価値の固定的な定点を作る。そしてその定点を中心に価値を風景化する。それが価値という曖昧な実態の背骨を担保する。しかし、その価値にも時間の経過とともに階層が生まれるように思え

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                        • 《Bang !》: 私たちの記憶《MEMORIA》

                          それは音である。その音の中では、《意味》は重力に押しつぶされている。《Bang !》という音で、彼女は目を覚まし、私たちは作品に入る。そして、あなたもこのテクストを読んでいる。私たちはこの作品を通して、《あの音》をジェシカと同等の質で経験する。映画館というテクノロジーは、ジェシカの鼓膜として機能するのである。 音響技師は彼女の聴いた記憶を”ここ”に現前させるために彼女の霧のような言葉を聴きながら、少しずつその言葉を音に翻訳していく。〈地球の核から鳴り響く〉、〈もう少し、金属

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                          • 《⡂⠠⢶⡂⠢》

                            ソフィ・カル(Sophie Calle)、彼女はもっぱらデジタルの写真家である。*Web上であなたに関する記述を目にする、あなたはコンセプチュアルアーティストであり、写真家であり、映画監督であり、いわゆる探偵でもあるとか。 *上記の写真と同様、彼女の作品集《Because》より。 P・Aいわく ”こういう芸術家だ、とひとつにくくることができない存在” だとか。 作家としての彼女の存在、あるいは彼女が作品を通して触れている’モノ’を解像度高く描写する言葉は豊富になってきた

                            • ・A sunlight through the window is being on my hand. I finished writing these letters before this sunlight is not here. 《窓を通過した光が、この手の上で休んでる。私はこの光が消える前に、《この文字たち》を書き終えた。》 ・ある老紳士と老犬が、一緒に生きてきたかのような速度で歩いてる。 ・ 《⠁⠅⠕⠎⠟⠥⠃⠵⠰⠀⠁⠙⠳⠴⠻⠃⠐⠳⠞⠺⠎⠥⠥⠊⠌⠎⠉⠋⠇⠊⠡⠛

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                              • 《想像》のエクササイズ:ユージーンスタジオ『新しい海』

                                東京都現代美術館で開かれている『ユージーン・スタジオ展』の会期の終わりが近ずいている。 彼らはこの展覧会の中で、現代では最も私的な振る舞いである《想像》という行為の可視化と共有をする。そして、《想像》という行為を”二人称的な振る舞い”へと拡張することを試みる。 概念芸術というのは、作品の中に他者の自主性が入り込める余白をどれだけ担保するか。この塩梅がとても難しい。この調整を誤ってしまうと、現在散見されることの多い大量生産的なコンセプチュアル・アートのように、鑑賞者の感性や

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                                • 《Tattoo》を。:ダスティン・チョン『ブルー・バイユー』

                                  映画(あるいは他ジャンルの作品も)は”救済”はしない。その点で、『BLUE BA YOU(ブルーバイユー )』は誠実である。移民は、あくまで移動の途上にいる。”<家>もないんだ”。本作はその現実感を”フィクション”の中で描写しようと試みる。 通常、フィクションではほんのわずかな間だけ、彼らに対して、何者も襲ってこない時間を担保した空間を用意することができる。情緒や心象風景を描写する美しい色彩による映像美。この映画の中では、”フィクションの力”と”この現実”は常に天秤にかけら

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                                  • 《救済の対話》のエクササイズ:濱口竜介『偶然と想像』

                                    つらつらと流れる”ありふれた会話”で鑑賞者はスイッチが入る。その日常カフェで耳をそばだてていれば聞こえてきそうな会話が私をイメージの中へと誘惑する。というよりは、イメージの方からこちらに寄り添ってくるようだった。それが本作品の中で最も際立つ《救済の話法》とでも呼べるような対話のアートの効能だろう。”つぐちゃん、なにそれエロい!” これは3話通してだが『偶然と想像』の作品群では対話とイメージが妙に戯れるのである。ある時は対話がイメージ化が起こり、ある時はイメージが私たち(鑑賞

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