y.kobayashi and so on | "みる"の質感

写真を中心に

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最近の記事

みたモノ 2-3月

展覧会 ・「クリストとジャンヌ=クロード “包まれた凱旋門”」 ふたりが用いる布は, 聖骸布だ. クロードの布によって包まれた対象は, 成熟で透明になった生気をもう一度再現前することになる. ヴェール越しに浮き立つ対象の表情は, かたちが顕れる彫刻のようだ. アウラを復権する彫刻は刹那的だが, そのアウラの垢が付着した”布”は世界中に飛散する. ほとんど鑑賞者がおこなうのは鑑賞ではなく, 脳内での作品の再建だ. ・河原温 「TODAY」 ずっと大好きだったけど, 展覧会

    • 筆が遅いのが何故かって、筆が重いからだ

      • デヴィッド・フィンチャー  『ファイト・クラブ』

        僕は今, 銃を突きつけられている. 銃口を口の中にブチ込まれて, 陸の息苦しさに驚愕してのたうち回る魚のような表情をしている. 人生の佳境を迎えているところだ. 銃口を頬張る僕の裡では, 人生”1回分”の思い出が回想されていた. この物語はそんな始まり方をするのだった. 映像が, 僕の語りについていくのが大変そうだ. だが, 僕の意識だって窒息しかけている. なんでかって. この世界から退屈なモノローグを聞かされているからだ. 僕がタイラー・ダーデンに心身ともに転

        • ヴォルフガング・ティルマンス『Moments of life』によるティルマンス入門

          ティルマンスの写真には, 白い壁がよく似合う. そのそびえ立つ白い壁は, 格式高いホワイトキューブを連想させる. だが不思議にも壁に融ける白い額装は, 美術の崇高さよりも彼のイメージの軽快さにしっくりくる. というわけでエスパス・ルイヴィトンでおこなわれているティルマンス展を覗いてきた. Wolfgang Tilmansへの入門にはさまざまな扉が用意されている. この寛容さ/公共性は彼の作品群の特徴のひとつだ.  鑑賞者は各々の関心を切り口に現代写真/現代美術のフロン

          『Modern Alchemy(モダン・アルケミー)』Vivian Sassen(ヴィヴィアン・サッセン) and Emanuele Coccia (エマヌエーレ・コッチャ)

          本を愉しむための本. 本の享楽にただ浸かりたいような人間には, 今回の選書はおすすめだ. この本の頁をめくっていく読み手が経験するのは, “知”を編んでいくプロセスである. この本は, オランダの写真家のヴィヴィアン・サッセン, そしてフランスの哲学者エマヌエーレ・コッチャの共著である. 本に中毒のある人間なら, きっと本に浸かるということが, テキストを読む前から, 本を開く前から始まっているということはご存知だろう. 本作品の体験もサッセンのイメージによる先導で始まる

          『Modern Alchemy(モダン・アルケミー)』Vivian Sassen(ヴィヴィアン・サッセン) and Emanuele Coccia (エマヌエーレ・コッチャ)

          フライデー・ブラック

          読みやすさ: ⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎ 批評性: ⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎ 芸術性(純文性): ⭐︎⭐︎ ファッション性: ⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎ 装丁: ⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎ まずは, 書き休めないこと. 手を甘やかないことだ. そうでないとあなたのことば/テキストには, 読者の目に対して過剰な重力を与えてしまうことになるから. だからまずは手をその深淵な思索からくる負担から逃し続けること. 彼の物語もその重い命題とは裏腹に, 軽快な文体で駆けていく. パルクールが都市の障害をファッション

          定点としての死者:ミシェル・フランコ『ニューオーダー』

          死者を定点に暴力を撮る。ここまで登場人物が主人公も含めて、”死”を準備させてもらえない作品もなかなかないのでは。この作品では、人間の生命の扱いにドキュメンタリー的な残酷さがこめられているのだった。 まるで、パチンとスイッチを切るかのように彼女の命の持続は途切れる。暴力は彼女の生をまるで陳腐な事実のように扱うのでした。そこに彼女が作品内における主人公かなんて、はたまたその彼女の母親かどうかなんて情状酌量の余地はないですから。ここでさえ人々の命は”陳腐化”されてしまう。そんな現実

          定点としての死者:ミシェル・フランコ『ニューオーダー』

          ”みる”の質感 / アーカイブ前後

          ”みる”、”よむ”というしぐさの質感は、どのようなものであっただろうか。これがこの作品を構想する上での核となる命題となっている。これらは私たちに、すでに実装された”しぐさ”である。それは透明であり、情報が経路を流通することを阻害することもない。 ときにあるイメージが私たちを捕まえることがある。こんな時、私たちは新しい靴を履いて歩く時のように、”しぐさ”そのものに特異感を抱くことになる。インフラとなるようなしぐさは、透明になりありふれたものとして私たちの感覚に実装されていく。そ

          ”みる”の質感 / アーカイブ前後

          «善悪のシミュレーション»:『モービウス』

          ”善と悪は、相対的な座標系でしかない”。それは、映画においてもリアルにおいても、ある種の共通規格となった。彼は、«力»を制御できずに力のないものを殺めることで自らを«悪»であると認識したり、自らと同等の«悪»を消化することでヒロイックに贖罪をしたりと、善悪の彼岸をめまぐるしく往来している。そんな倫理的分裂症ぎみの天才科学者が主人公の超人系映画『モービウス』。多視点世界を表現する映画の作品群ほど、それこそマルチバース化するプラットフォームの整理に有用ではないだろうか。表象の構図

          «善悪のシミュレーション»:『モービウス』

          «イメージのサイボーグ化»

          写真はサイボーグ化しつつある。これは、僕がリコー社のデジタル出力機器を目にした時に感じたことだ。テクストの世界で、”僕”という表象は、随分と自己言及的になったのではないだろうか。この呼称を用いるだけで、テクストはナラティブな様相を帯びるのだ。現代において、”写真”という言葉は、それが取り扱う領分の広さに、忙しくしている。かたや、写真というオブジェクトの存在論的定義の修正に、かたや”それを見る”という行為の分解と拡張に。写真という言葉は、溶けかかっている。 その頑健な岩肌は、溶

          «イメージのサイボーグ化»

          «都市»に関する覚書

          ますます«都市»というのは写真そのものに思えてくる。«都市»の風景は意味を過剰に着込んでいる。というより、風景が«都市»を着込んでいる。イメージが実装されすぎた風景。それが、私にとっては、現代の«都市»なのである。ある種の質量とまで転化した、ゴーストは、憑依した身体を消耗させるに至っている。なるほど、身体はデッドメディア化しつつある、と。 ”イメージには優しさが必要である”。傷んだ身体に、イメージが寄り添わなくてはと。そういったある種の”優しさ”をイメージに実装しようとする意

          《写真》を問う写真:吉田志穂『測量』

          以前見たのはインスタレーションの形式をとった作品群であった。その空間を”それ自体”ひとつのイメージへと変えてしまう、身体全体を目へと変貌させてしまう体感型の写真としてのインスターレーションもいい。だが、やはりひとつひとつの”断片”としての写真へ順に没入していき、思考の順序をゆっくり可視化していくのも悪くない。 ”写真そのものの一次性とは何か”。吉田志穂の作品は、デジタルとアナログの表現が混在する中でその問いと並走する。 ”写真家はアナログとデジタルを往来する”。もう言わず

          《写真》を問う写真:吉田志穂『測量』

          《しぐさ》としての物語: ケン・リュウ『紙の動物園』

          未来のイメージから新たな”しぐさ”まで一気通貫して私たちに提供する。それがSpec-Fic(スペキュレイティブ・フィクション)の持つ機能のひとつだろう。そういった意味では、ケン・リュウもその種の作家であり、今回私が目を通した『紙の動物園』も読者の情緒を優しく撫でる。そして本を閉じた後、この動物園に収められた”しぐさ”のパッケージは私の振る舞いの中へと解き放たれている。〈折り紙〉〈息を吹き込む〉〈中国語で話す〉〈手紙〉etc。 この『紙の動物園』では、ある生命が他の場所に〈吹

          《しぐさ》としての物語: ケン・リュウ『紙の動物園』

          《*》:多層化する戦争

          現代の戦争において最も強力な力はおそらくメディアだろう。次に来るのが、物理的武力である。メディアは一国を陥とす。現代において戦争にもレイヤーがあり、多層化しているわけだ。 そんな時代における、ロシア・ウクライナ問題について、私の目は"表象戦争"とも呼ぶべき現象に向いており、それを描写する行為は、多層的な戦争に少しでも水を差す試みのなかで、ほんの一面的な役割しか担えない。だが、私たちがもっぱら目にするの、スクリーン上で振る舞っている表象たちである。私は実際に《彼ら》の具体的な

          《ここから解き放たれて》:『Meta Fair #01』

          有楽町で催されている『MetaFair#01』に足を運んできた。#02があるのならその機会にもぜひ伺ってみたい。MetaFairと題しているが、これはリアルな場でのイベントである。正直、NFTという技術が透明になり、このバブル熱が冷めるに至らないと純粋な鑑賞体験の機会が失われてしまいそうで怖い。 NFTは価値の固定的な定点を作る。そしてその定点を中心に価値を風景化する。それが価値という曖昧な実態の背骨を担保する。しかし、その価値にも時間の経過とともに階層が生まれるように思え

          《ここから解き放たれて》:『Meta Fair #01』

          《Bang !》: 私たちの記憶《MEMORIA》

          それは音である。その音の中では、《意味》は重力に押しつぶされている。《Bang !》という音で、彼女は目を覚まし、私たちは作品に入る。そして、あなたもこのテクストを読んでいる。私たちはこの作品を通して、《あの音》をジェシカと同等の質で経験する。映画館というテクノロジーは、ジェシカの鼓膜として機能するのである。 音響技師は彼女の聴いた記憶を”ここ”に現前させるために彼女の霧のような言葉を聴きながら、少しずつその言葉を音に翻訳していく。〈地球の核から鳴り響く〉、〈もう少し、金属

          《Bang !》: 私たちの記憶《MEMORIA》