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フライデー・ブラック

読みやすさ: ⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎
批評性: ⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎
芸術性(純文性): ⭐︎⭐︎
ファッション性: ⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎
装丁: ⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎

まずは, 書き休めないこと. 手を甘やかないことだ. そうでないとあなたのことば/テキストには, 読者の目に対して過剰な重力を与えてしまうことになるから. だからまずは手をその深淵な思索からくる負担から逃し続けること.

彼の物語もその重い命題テーゼとは裏腹に, 軽快な文体で駆けていく. パルクールが都市の障害をファッションにしてしまうかのように, 彼にとってフィクションという技術は現実との処世術なのかもしれない. ポリティカルコレクトネス. 彼の物語もこの現代社会への批評的使命を自覚的に背負っている. だが彼のライトなことばによる語りは”ねじれ”から生じる息苦しさを読み手に与えない.

一般に, 僕の日常にちらつくほとんどの読み手/鑑賞者は格差暴力の被害者ではない. 少なくとも芸術を媒介とした解毒を要するほどには. 万人への妥当な平等の追求. これは社会の振る舞いに敏感に反応しながら,作品を出力していくあらゆる作り手の本領ではある. だが, 政治的言及をするイメージが視界を埋めている光景が”真っ直ぐ”に人々の目に理想のビジョンとして映るとは限らない. かえって閉塞感や息苦しさに繋がりつつあるのが現代の誤算だ. それは, 僕らの裡に内在するある種の”うしろめたさ”によるものだ.
それは, 非当事者の感覚を芽とした“うしろめたさ”だ. 上記のようなビジョンを見た際に自覚する社会への冷めた無関心さからくるうしろめたさだ. 黒人のイメージに対して流行りのファッションとしてしか熱を保てない軽薄さだ. 僕/僕らは差別する主体でもされる客体でもない(少なくともダイレクトには). 崇高な未来のモデルイメージが放つ眩しさが傍観者の裡にある倫理観にねじれをつくってしまうのだ. だがナナの持つシンプルな語りの才能が当事者の情動と縁遠い読み手である僕らを繋いでくれるのだ.

この作品に登場する主人公/主体たちは殆どが, <正義>から見放された人々だ. そして, 彼らはそのことを既に受諾しつつある. ナナが物語を通して僕らは暴力のディテールの多様さを認識する. 法が味方する悪人に同胞の痛みを再現することが最適解であるかのような現実を(『Finkelstein 5』). 誕生以前の生命が常に主体として承認されない現実を(『LarkStreet』). 資本主義が発明した日常にいる僕らの標準的な欲望がすでにケモノであるかもしれない現実を(『FridayBlack』). 反復する現実という監獄とその中で差異を所有する寂しさを(『Lightspitter』). 他の作品でもナナは独自のフィクションのお作法を用いて世界に馴染んで透明になってしまった暴力の肌理を浮き彫りにする. 僕らにもわかるように.

この作品のなかで書かれていることは”表層”だ. 書かれているというか写ってしまっているという感覚の方が近いと思っている. 僕らは物語のなかでしばらく”漂う”ことになる. 彼らが僕らに提供してくれるのは, フィクションで造られた原体験だ. そこで垣間見た闇にさらに浸かって,深く潜水してみるかどうかはこの現実で余地として残されている.

さいごに触れておくと作家が解き放った物語に上等の橋渡しをしてくれる翻訳には感謝したい. っていうのは, 至る所でどうやら喝采を受けているらしい.

なのでもうひとつ. この美しい装丁と物語への誘い役を最初に担っているこのカバー写真に対しても. 僕はひとりでに喝采を鳴らしている. 実際のところ僕も”好きな写真家のイメージが起用されいるから”というのがこの作品に手を出す体裁だった.

あなたも極上な苦味のこの本を味わい尽くしてくださいね.











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