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定点としての死者:ミシェル・フランコ『ニューオーダー』

死者を定点に暴力を撮る。ここまで登場人物が主人公も含めて、”死”を準備させてもらえない作品もなかなかないのでは。この作品では、人間の生命の扱いにドキュメンタリー的な残酷さがこめられているのだった。
まるで、パチンとスイッチを切るかのように彼女の命の持続は途切れる。暴力は彼女の生をまるで陳腐な事実のように扱うのでした。そこに彼女が作品内における主人公かなんて、はたまたその彼女の母親かどうかなんて情状酌量の余地はないですから。ここでさえ人々の命は”陳腐化”されてしまう。そんな現実における暴力の容姿に対して、誠実なまでの描写に徹するというのですから、映画監督というのはなんて厳しい職業人なのでしょう。腰を落ち着けによった私にまで物語の空虚さが憑依してしまったかのようですよ、監督。本当に私まで彼らの生命への無頓着さを習得してしまいそうなんですから。
にしてもこれはスリラーなのですか。ほとんどドキュメンタリーと言ってもよろしいほどに、調達してきたかのような描写に私には思えるのですが。しかしあの急勾配的な状況の変化、貧富の格差、力の格差。これ程に地続きな退屈さ、本質の日常が欠如していたら、たしかにスリラーじゃねえかとツッコミを入れられてしまいそうです。格差を表現するのにも”死”!現実を表現するのにも”死”!!(もちろん映画の終わりを表現するのにも”死”!!!)この映画は人々の”生”を«生贄»として成立しているんです。これがスリラーでなくて何なのでしょう。そして、この題材となる落下の末にたどり着いたような格差。これがスリラーでなくて何なんでしょう。
私も、目の前の風景に忠実ばタイプな人間なのです。なので、ある作品に没頭しているときに、他作品の引用をすることに気が進まないのですが、この映画では最初から重要な”引用”がされていますね。”死者だけが戦争の終わりを見た” 。これを観て、やはり記憶が一番上に持ってくる参照元は、やはりプラトンよりも、リドリー・スコット監督の『ブラックホーク・ダウン』ではないでしょうか。他作品など引用しなくとも、本来目の前の映像に没頭すればいいものですが、私も当監督の振る舞いに倣って、ここで少しだけ『ブラックホーク・ダウン』(以下B・D)を『ニュー・オーダー』(以下N・O)の横に添えて鑑賞してみることにしましょうか。この双方の映画、”戦争”を題材にしている点では、共通しているですが、それぞれ作品によって記述する対象が違うのです。B・Dは、やはり戦争が記述の対象となっている。エンドロールでは、戦死した兵士の名前も挙げられ、戦争を描く上では”彼ら”を引用することは欠かせないことだったと言えるでしょう。しかし、本作(N・O)ではそんな”死者の復権”のような引用は、ここまで述べたとおりなされません。N・Oは、そこから1レイヤー深く踏み込んでいる。さらに闇に潜ることで視えてきたものなのではないでしょうか。そう、そこに位置付けられるのが、この映画の中で振る舞う«欲望»や«暴力»のステータスなのです。得てして、私にはあの人々の扱われようが、ゾッとするほどリアルに感じられたわけです。
人間はその原点的在りようとして“莫迦“である。テクストのように入り込んだ多様な制度の奔流に立ち会うと知性や倫理のステータスは相対的に些末な輝きしか持ち得ない。この作品の中で目にするのは、ヒエラルキーの中で欲望に準ずることになる倫理や知性の無力さである。その間にある途方もない距離である。そこで、彼ら/私たちは獣のとしての姿に回帰してしまう。彼らの振る舞いは暴力なのか、それとも愛情を求める赤子の泣き声と同類のものなのか。その視野が認識できる対象は目の前にある欲望の空腹さを満たすための食事を得ることによる快楽のみなのである。そう、私が最終的に知覚するのは、自らの肥え過ぎた欲望が抱える過食症という診断結果なのであった。

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