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”みる”の質感 / アーカイブ前後

”みる”、”よむ”というしぐさの質感は、どのようなものであっただろうか。これがこの作品を構想する上での核となる命題となっている。これらは私たちに、すでに実装された”しぐさ”である。それは透明であり、情報が経路感覚を流通することを阻害することもない。
ときにあるイメージが私たちを捕まえることがある。こんな時、私たちは新しい靴を履いて歩く時のように、”しぐさ”そのものに特異感を抱くことになる。インフラとなるようなしぐさは、透明になりありふれたものとして私たちの感覚に実装されていく。それまでの間私たちは”しぐさ”そのモノを、オブジェに触れるかのように体感できるのではないだろうか。
この触覚的な存在感や操作感が消えないものは、インフラ的なしぐさとしては欠陥がある。日常において”みる”や”よむ”は、まずもって情報が流通するための経路なのである。だが質感が残れば残るほど、私たちはそれに没頭することになる。その流通を滑らかにすることが、インターフェースデザイナーの本来的な役割である。一方で私が興味があるのは、”みる”という行為の分解である。このしぐさは、内-外在するどのような各種器官の連関によって成り立っているのか。それをトレースするために、一度しぐさのオブジェクト化をしてみることが有効であると考えた。
ここでようやく今取り組んでいるオブジェクトに関して紹介できるように思う。これは、まだ作品やプロダクトと呼べるようなものではない。なので自信が持てるまでは、”イメージ”とよんでおこう。”ここ”では、そのイメージ幽霊に肉付けしていくための構想/思考のトレースをしていければなと思っている。その可視化された痕跡をみなさんと共有することがこのテクストの目的である。そもそもこの思考の発端は、どこから湧き出たものであっただろうか。と訊かれると、現在の「アーカイブ」(もっぱらデジタル)という”閉じた”インプットモデルと「タイポロジー」という私の気に入っている写真表現のスタイルがもとになっている。そういった意味で、これは私の趣味を料理したようなものでもある。でもその”テイスト”はお互い味わえるものでしょう。

(*無理して英語で書いていますが、Formatだけ見ていただければ大丈夫です。)

ここでは、一緒に添えたテキスト(かき途中)のなかにそのふたつの痕跡を垣間見るようなかたちで、現状のコンセプトとそれに実態のあるマルチ・オブジェクトにしていくための展望まで紹介できればと思う。”テキスト”などと哲学こめたような物言いをしてしまったが、実際はweb言語でその哲学を表現をしようと思って挫折したのである。なのでとりあえず筆が軽くなる形式で、共有可能な程度に具体化したかったのである。展望のひとつとしてwebサイトかAppで作品の体裁をとることが個人的には望ましい。デジタルアーカイブのモデルへ批評的に水を差すことがこっそり下心としてあるのであるから。ではテキストが二番煎じの存在か問われるとそれも違う。”テキスト”と”デジタルアーカイブ”、並走するお互い独立した役割を担ってほしいと思っている。前段でも触れたが、私の興味があるのは”みる”・”よむ”のメカニズムである。複雑さを整理するのに、しぐさを分解して可視化/物質化して”触ってみる”のが一番ではなだろうか。

«        » は、今回の作品のタイトルであり、ロゴでもあり、そしてひとつの機能としてそこにある。というより «       » が振る舞っているとした方が正しいかもしれない。«        » を”定点”として、”ある名前”が生まれるまでの物語を書簡形式で記述する。私はこれが何よりも具象的であることをまず望んだ。俯瞰的な物語であるかと思えば、手のひらのうちに収まる”しぐさ”にもなること。これは、鑑賞者の中のイメージをフレーム化する定点なのである。私たちは、外部化しなければありふれたものの特異性/質感を感じることができないのではないだろうか。私にとって、アーカイブは外部化された器官の体系方法として魅力的だった。そこでは、”みる”ために必要な内在するイメージの貯蔵庫の輪郭が浮かび、イメージが流通するための中継リレーともなり、それらの器官を”いじってみる”こともできる。
デジタルアーカイブにおいて”アーカイブ前後”のしぐさの設定が必要である。私は、メモリアル的なアーカイブほど、情報の流れは滞りやすいと思っている。デジタルアーカイブという手法は、意外とアーカイブ行為そのものの消費になりやすい。デジタルアーカイブはブラウザの外での振る舞いの設定も用意されていないと情報を流通させる動的なポテンシャルを失ってしまう。PDFやwebなどマルチメディアワークとして柔軟な形態身体をもてる、さらにはしぐさと化すことが最終的には望ましい。私はアーカイブ以後のしぐさまで含まれたモデルの一つとして”タイポロジー”を念頭に置いたのである。タイポロジーではありふれた被写体は”無名の彫刻”へと価値編成される。私もその手段を思索中なのである。
今のところ共有できるのはここまでである。とりわけ、書くことに対するスタミナの制約もあってコンセプトの質感の共有に終始してしまったが、随時”機能”やコンセプト実践の経過も共有していければと思う。

参考
※ http://thomasruff.jp/texts/f_fukai_sawako/


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