《救済の対話》のエクササイズ:濱口竜介『偶然と想像』

つらつらと流れる”ありふれた会話”で鑑賞者はスイッチが入る。その日常カフェで耳をそばだてていれば聞こえてきそうな会話が私をイメージの中へと誘惑する。というよりは、イメージの方からこちらに寄り添ってくるようだった。それが本作品の中で最も際立つ《救済の話法》とでも呼べるような対話のアートの効能だろう。”つぐちゃん、なにそれエロい!”

これは3話通してだが『偶然と想像』の作品群では対話とイメージが妙に戯れるのである。ある時は対話がイメージ化が起こり、ある時はイメージが私たち(鑑賞者)と登場人物の人称関係にいたずらを仕掛けてくるのである。第1話魔法では大きく3つの会話シーンが主軸をなしている。あとの2つに関しては”対話シーン”と呼んだほうがいいかもしれない。最初の会話はもうほとんど私たちがカフェで耳をそばだてて聞くような完全なガールズトークである。正直、男の私はここの会話の内容をはっきり覚えていない。私が同席しているテーブルで完全に彼女たちの世界を炸裂させられている気分だった。だがもうこのリズムが否応に私を”同席”させることを強いるのである。2つ目の対話が始まる。これは本来あっち側(スクリーンの中)の会話だが、ここでイメージがいたずらを仕掛けてくるのである。それは単純に話をしている芽衣子(古川琴音)の顔がクロースアップされたという視覚効果だけによるものではないと感じている。毒々しさのある台詞が彼女の表情の緩急や仕草として視覚的に物象化されているといった感じなのである。”本当に”本作品群では対話が”イメージに乗る”のである。最後の対話のシーンでは修羅場を私たちの前に持ち込んだ当のイメージが十分に突散らかした事情に〈カラッとした〉折り合いをつけてくれる。

本作『偶然と想像』は3つの話からなるオムニバス短編であるが、それぞれ世代ごとに”ほっといたまま”の糸の絡まりのような複雑さをほどいていこうとする物語である。あとの2つの話も1話目と同様、対話が大切な役割を果たす物語となっている。近年では技術的な観点からもイメージ先導の作品が多く、会話にその作品の魅力を詰め込みすぎると野暮ったい印象に取られてしまうこともある。だが本作ではそれがかえって、イメージの特有の、ひいてはスクリーンというフィクションそのものの潜在性を可視化してくれる。個人的に、2話ではそれが本当に活きているように思う。もう少しお付き合いいただける場合は、ぜひ”扉は開けたままで”・・・

第2話『扉は開けたままで』においても、私たちを誘惑する言葉と対話の魅力は止まらないが、1話に比べて少しセンシュアルな湿度感は高く、世代によって出る色彩が少し変わる。にしても、2話においてはメイクや演出による女性っぽさの緩急のつけ方がとても重要だったように思う。物語の中で、1話と3話に比べて2話では”長い時間の経過”を設定されている。しかし他の2つの物語と同じく、この2話『扉は開けたままで』においても彼女は忘却という長い時間の障害を受けずに、一連の仕草を滑らかに完了するのである。それにはこの30分とい尺でまとめるにはメイク演出による女性っぽさを存分に活かすことは、話法とともに重要な要素のひとつであったように思う。

一方、話法の魅力は、〈彼女の朗読のシーン〉であらわれる。この官能的な朗読シーンは長い。これは他者を想定していない対話というべきか、《2人称的モノローグ(独白)》といってもいいかもしれない。だがやっぱり聞いているというよりはやっぱり”観ていた”といのが個人的な体感である。このシーンで彼女はなにをなしたのか。おそらく、”自分の持つ命題を〈ここ〉に持ち込んだ”ということなのだ。彼女は”やっと”その命題を彼(ひいては私たち)と立ち会うことができるのある。実際、彼女は朗読のあと、彼との時折、コントじみた(これはインタビューなどでよくあがっていた表現をここにおいた)対話の中で命題を少しだけ消化できる。作中では《救済の話法》ともうひとつ《カラッとした(映画的)ユーモア》が抜群に役割をこなす。わけだが個人的には映画特有といっても過ぎた物言いではないと思っている。仮にこれがテキスト作品だったらセンシュアルな物語を最後にユーモアで回収するなんてこと絶対に滑りますからね。シアター内を鑑賞者の笑い声で占拠するなんてこと本作のようなテイストの映画だとなかなかできないと思いますよ。普通は。

〈見どころといえばなんと言えばいいのだろうか。〉これは瀬川教授を演じていた彼(渋川清彦さん)がインタビュー動画内でそのまま述べていたことである。”ほどけきれない複雑さ”。それを表現する作品になったことをよく示していると思う。

さて第3話(最終話ではなく)の設定はいわゆるITパンデミック。今の世のように、人々同士の間で生じるソーシャルディスタンス的な隔絶による世界との疎遠さとは対照的に、自らの情報の流出で自らの意に反して、心のうちまで丸裸にされてしまった世界観が、SF臭が強すぎないようにマイルドなテイストに薄めて設定されている。なのでこの設定に色濃く視線が集まるということもないと思う。私の目に最初に止まったのはジェンダー像の描写である。主人公、夏子(占部房子さん)は同性愛者。その長年顔を合わせていない彼女の元恋人と本物語における対話のパートナーとなるあや(河井青葉さん)を偶然的人違いすることで話が展開していくわけだが、同性愛者の彼女の色合いもまたマイルドでありふれた日常から浮いた描写をされることはない。昨今のマイノリティ問題の表象のようにいわゆる〈虐げられた者〉だったり〈その特異性をとことん前面に出したアヴァンギャルド・ヒーロー〉のようなイメージからはこの映画の中で彼女は護られている。彼女が望むのはあくまで、やり残した過去の命題の消化である。作家独自のメタファーが体制化や暴徒化しつつあるイメージや言葉から離れて、彼女にしかるべき時間を担保してくれる。

3話で用いられる対話のアートは説明が難しい。しかし少なくともそこで教えてくれるのは、対話というのは言葉以外のレイヤー(哲学的コードでこれを”シニフィエ”といったような気もする)が統合されることで成立するということだ。本作ではその遠い他者の存在を徹底的に肯定する対話で幕を終える。

この作品では、鑑賞者に《救済の対話》というある種のエクササイズとそのしぐさを実装してくれる。『偶然と想像』はそんなシアターの外に帰るための映画だ。

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