真面目なねごと

眠れないのでちょっとだけ言葉を紡ごうと思う。

私は物心ついたときから音楽家になりたいと願ってきた。それはピアノや合唱や民謡など音楽に触れてきたことが主な理由であると思うけれど、いかんせん「誰かと比べられる」ということが嫌いだった私は、ピアノの先生や親に「〇〇ちゃんはもっと練習しているよ」なんて言われると全く練習がしたくなくなった。

誰かと練習時間で比べられて、誰かより悪いと言われることと、自分が音楽を楽しむこと、練習を楽しんで、音楽の物語に没頭することとは一緒ではないのでは、というようなことを考えていた記憶がある。練習をしてより技術を磨くことより、上手く弾けるようになることより、自分がピアノを弾くことで楽しいなって感じたり、誰かが喜んでくれたり、そういうことが嬉しくてピアノを続けていたのだ。

この部分からわかるとおり、私は、コンクールというものが嫌いだった。コンサートならいい。だけど、音楽で順位がつくのがとてつもなく嫌だった。

だから、私は音楽ではなく、「音遊(おとあそび)」という語のほうが好ましいと感じるようになった。

厳密に言えば音楽の語自体には競うことのニュアンスは含まれていないのだけれど、当時の私にとっての音楽は、高尚で私なんかには手の届かない、だけどどうしても届いてほしい、そのような存在だった。


さて、「文学は何の役に立つのか」と度々問われている。

経済学部や法学部、理系の学部は実際に社会や実世界に還元できるが、文学部で学ぶことは文学それ自体として還元するには価値が低すぎると考えられているのだろう。

しかし、私は文学は「社会から取り残された存在をも掬い(救い)あげる」ことができる学問であると考える。

例えば、社会や法律では、多数派であり、ある程度学があり、常識があり、世の中に多く存在する「普通」の人が暮らしやすくするための秩序を定めている。

もちろんその人たちから見て「立場の弱い」人に向けた「サポート」も忘れない。

……本当にそうなのだろうか。


私は、恵まれてここまで育ってきたけれど、恵まれているがゆえに見えていない、見ようとしていない現実がある気がしてならない。

そういう発想に思い至る人、というのは残念ながら多くはないと思う。自分が良ければそれでいい、とかそういう問題ではなく、社会が多数派で「普通一般」の人で溢れている(かのように錯覚させられている)からではないかと考える。


そう考えた時に、文学や小説ではどうかと考える。

芥川賞を受賞した小説では、「セックス」や「ドラッグ」を描いた作品が多くあるように感じる。これは社会を生きている中ではある種タブーとされている話題だと思う。また、小説には、「普通」の人より、特殊な職業の人、「普通」ではない人のほうが多く描かれている。たとえ「普通」であるように見えても、人生を悲観していたり、達観していたりすることが多い。

文学では、「社会の秩序」に当て嵌まらない人、当て嵌まりたくないと感じている人達に焦点を当てていることがある。

こういう人、いるよなと感じたり、こんな感性意味がわからないと懐疑したり、そういうことが文学を通してなら気軽に、かつ現実で出会うよりも様々な人や考え方に触れることができる。

纏まりのない文章であるけれど、この文章だってそうだ。

「私はそうは思わない」という人もいるだろう。だけど、「そういう人もいるんだ」という自分と違う価値観を持つ人がいるということを自覚するだけで、幾分か生きやすくなる気がしないだろうか。

時節柄、「音楽の力」という言葉を聞く機会が増えた。

音楽は確かに感情に直接語りかけ、情緒を想起させ、「何か」を私たちの内側にもたらしてくれるだろう。しかし、それが「何」なのかは、一概にはこれと言えないのではないかと思う。

音楽も文学も、人の心を慮ることにこそ、また、人によって違うことにこそ、価値があるのだろう。しかし、また同様に、そういうところが途方もなく難しいのだろう。




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