俺は文章で金が稼ぎたかったし、いまもそうだ。
労働がなかなかできない。
いろんな理由があるのだが、一番大きいのはやはり躁鬱がひどく、調子がいい日がと悪い日の差がありすぎることだ。仕事をするには継続的にしなければならず、ある日急に一週間休みますとはなかなかできない。しかし私は定期的に体が動かなくなる。いろいろな対策をしてきてはいて、そのたびにマシにはなってきているのだが、継続して労働ができるほどにはなっていない。
労働がうまくいかないたびに思う。文章でお金が稼ぎたい。もちろんそれが甘い考えだとはわかっている。文章で食える人は、文章それ自体が味があるのはもちろん、その内容の視点がとてもおもしろい。それが出来る人はとても少なく、そもそも多くの人はまともに文章が書けないし、読めない。書ける人であっても他人の文章が読めない人はいる。それほどまでには、文章というのはむずかしいものだ。
そしていまも文章でお金を稼ぎたいと思ってしまう。つまり労働がうまくいっていないのだ。
でも私には大して書くことがそもそもないのかもしれない。いや、書くことなんて書いていたらできるものなのかもしれない。それはわからないが、とにかく諦めが悪く今日もわずかなお金にならないかと文章を書く。テーマも特段なく。
冬は特に躁鬱がひどいからか、日によってだいぶ体調が変わる。人に対して愛する気持ちや、憎しむ気持ちが、一時間ごとに変わってしまう。状況はなにも変わっていないのに、自分の中で解釈が変わって、まったく違う世界になってしまう。
そういう自分を楽しんでいる部分もあるのだが、しかし、やはり後悔することの方が多く、時にはもう死んでしまいたいと自暴自棄になることもある。もちろんそんな勇気もなく、所詮は少しの睡眠薬を飲んで救急車に運ばれ、周りの人に迷惑をかけたりする人間でしかない。
そんな私も30年生きた。30年生きてもいまのところあまり何も変わらない。多少の仕事はできるようになったし、要領自体がすべて悪いわけでないこともわかってきた。それでも、何かを継続する力というのはまったく身についていない。
いったいどうすればそんな力が身につくのだろうか。薬は飲んでいる。しかし効果はあまり感じられない。昔あった対人恐怖はだいぶなくなった。それは大きなことだ。しかし気分のむらは、昔より大きくなったところもある気がする。
睡眠をしっかりとり、食事をしっかりとり、人間関係をしっかりする。最近の私は今までよりはそれらをしっかりできていたはずだ。それでも気分の波は激しい。もはや巷で言われていることはほとんどすべてやったのだが、それでも、私は私のままだ。
どうやったら変われるのか、それは今でも試行錯誤している。たとえば今は体力をつけることを一番に考えている。筋トレであったり、歩いたり走ったりする量を増やしている。ツイッターでもよくあふれているが、筋肉がすべてを解決するという言説は強い。それはある程度そう実感している人が多いからなのだろう。だから私もムキムキになれなくても、筋肉がほしい。
そうやって変わることは諦めてはいないのだけれど、それでも、文章で金が欲しい。いや、文章の仕事こそ体力勝負なのではないかといわれるとそうかもしれない。だから一番向いていないのかもしれない。それでも、もともとの憧れもあってか、どうしても文章でお金が稼ぎたい。
しかし、自分でいったい何を売り物にできるのか、わからない。五年前まではひたすら小説を書いていた。さいきんはまったく書いていない。単純に才能がなかったのかもしれないが、いちばんは情熱がなかったのだ。新人賞にも応募した。まったくダメだった。もちろんプロの作家でも一次落ちしているものだったりするのはしっている。しかしやはりここでも、続ける才能が自分にはなかったのだ。
私はどうして文章にこだわるのだろうか。文章を他人にわりと褒められたことがあるから、それも大きいと思う。でも一番大きいのは、書いていて割と楽しいということと、何より自分があとで読み返したときに、おもしろいと思うことだ。まるで自分が書いたものとは思えない感覚になることが多い。
これはある種のナルシシズムなのかもしれないが、それでも自分のことでそう思えることが少ないから、私にとってはうれしい出来事だ。いい文章が書けたときはとてもうれしいし、もちろん、自分にとって何が良い文章なのかも曖昧だが、それでもあのときの充実感はたまらないものがある。
私は自分の可能性にかけたい、なんてことを言える年齢ではない。でも、何歳になっても結局はやることは同じだ。やるか、やらないかだけだ。結果なんてわからない。わかったらつまらない。成功したいなんて思うけど、何が成功なのかもわからない。ただ、生きるだけだ。
そもそも30年もほとんど労働せずに生きてこれたのだから、かなり運がいいのだろう。日本という国に生まれて、わりと裕福な家庭に生まれて、それだけでほとんどの運を使い果たしていると言ってもいい。これだけ幸運なのだから、もう何も求めることなんて本当はない。それでも、人間は欲深いから求めてしまう。少なくとも私は求める。自分の文章を読んでほしい。でも書きたいことはない。矛盾したような、してないような欲望だ。
こうやってだらだらと文章を書くことはできる。でも、これももうやめたいのだ。本当に何かを伝えるような、伝えられるような、そんな文章が書きたい。いや、そんなもの誰も書けていないのではないか? 文章とは誤読しかないのではないか? そう思うこともある。でも、それでもいまとは違うフェーズに行きたい。いまのままではダメだ。そう思いながら、いつも通りの文章を書いてしまっている。
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