愛は祈り、ぼくは生きる。

 たとえばぼくが死んだら、きみは本当に泣いてくれるんだろう。
 近しい人が死ぬ。それはとても悲しい。突然のことなら尚更のことだ。そしてそれが限りなく自死と呼ばれるものに近かったら、ぼくたちはなにをどういう風に受け止めればいいのだろう。
 人が死ぬということに、リアリティがないのかもしれない。身近な人が亡くなったいまも、それに変わりはない。どうやらあの人は死んだらしい。しかしそのことの意味がいまだにつかみきれずにいて、なんとなく悲しく、それ以上の感情が蠢くことはあるけれど、それがいったい何なのかはわかっていない。
 でも、ぼくが死んだら、きみが泣いてくれることはわかった。自分で書いていて、きみというのが誰なのかわかっていない。曖昧にさせたいのかもしれないし、複数人いるというのが本当のところだろう。ぼくが死んだらきっときみが泣くから、だからもう少しぼくは生きていこうと思う。
 あの子が死んだという話を聞いて、ぼくが最初に言ったことはぼくは絶対に生きていくということだった。死んだ人間を前に、自分だけが生きていくという宣言をすることに何の意味があるのか。まだ生きている者たちに向けた言葉。死者に言葉は届くのか。いまのぼくが持ち合わせている言葉は、いま生きている者、つまりは死んでいない者に対してと、まだ生きていない、つまりはこれから生まれる者たちへしか伝わらないような気がしている。
 自ら死ぬことを選ぶ。身体は健康な人間が、死へと傾倒していく。ある意味では異常なまでの生への執着とも言えるのか。死をちらつかせて、自分の命の価値を高めようというのか。だとしたらそのギャンブルに負けたとでもいうのか。いや、こんなことを書くことは、ただの冒涜になるのか。しかし死者への冒涜と言うが、死者を冒涜できると思っているのはあまりに自惚れているのではないか。もはや何の言葉も届かない。死者には何も届かない。生きている者が、同じように生きている者とこれから生きていく者に対してしか、言葉は届かない。冒涜さえ不可能な存在。だから死ぬことは重たいのか。せめて冒涜くらいさせてくれ。どんな醜い言葉だって、何も届かないのなら、こんなに悲しいことはない。あの子には何ももう届かないからぼくたちは泣いていたのか。それを直感していたから、泣いていたのか。何かを思ったとしても、二度と届けようとすることさえできない存在になってしまったあの子を、恨みつつ、悲しみつつ、泣いていたのか。そんな感情を抱くことができるのは、もちろんみんなあの子のことが好きだったからじゃないのか。
 どうやらあの子は死んだらしい。そしてぼくたちは生きているらしい。この生命がいつまで続くのかはわからない。これから先もぼくの周りで自分で命を絶つ人がいるのかもしれない。そうなったら悲しいとは思う。それもまた自由であると受け入れたくはないとも思う。死はあまりに暴力で、生きることだって暴力に晒されることだが、それでも、それでも人は生きるんだと思う。死を前にすると改めてそう思う。いったいなんのために生きているんだろうと考えることだってあるし、たいしたことのないことで絶望し、すべてを恨んでしまうことだってある。そんな醜い自分を晒してでも、生きていくことを肯定する。理由や価値をすべて置き去りにして、ぼくは生きる。そうだ。他者の死を前にしてできることといえば、それでもぼくは生きると誓い、せいぜい死んでいない者たちに祈りを捧げながら、死にたくなるような世界で生き続けるしかない。それ以外はない。だからぼくは生きる。あの子はもういない。だからぼくは生きる。
 


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