なぜ、自分のことをしゃべろうとおもったのか

みなさん、こんにちは。まっきーこと石牧です。実はですね、9月22日(火)に古市佳央さんが主催されるサムライ講演会に出場することになりました。今まで人前に出ることは極力避けてきたのですが、なんで急に自分のことをしゃべろうと思ったのか、書いてみようと思います。

1. 「障害者」が障害についてしゃべるときの違和感

最初に念のため断っておきます。ここに書いてあることはすべて私の主観です。個人の感想です。皆さん分かってくださっていると思いますが、そこだけ明確にしたいと思います。

その上で、私は、障害者が自分の障害について話しているのを見るのがあまり好きではありません。それは何となく自分のコンプレックスを見せられているような、自分の恥部を見ているような感覚があるから。そして、今まで見てきたそのような話には、私は生まれながらにこんなに大変で、社会から差別されながらも懸命に生きてきました、というような話の行間に「だから社会は、我々社会的弱者を助けなければいけない」という押し付けがあるような気がしてならないから。

言わんとすることは理解できます。きっと大変な苦労を乗り越えて今のあなたがあるのだと思います。でも、そんなニュアンスの話を聞くと私は性格が悪いので、「は?だから何なの?」と思ってしまう。自分の人生とその他大勢の人々の人生を比べて、自分の人生の方が苦難が多かったから、助けてもらえる権利がある、みたいな話に嫌悪感を抱いてしまう。例えるなら、いじめられて苦しんでいる人を前に、「確かにお前は苦しいかもしれない。でも、世界には今日食べるものもなくて餓死する人もいるんだ。そんな人たちと比べたらお前は恵まれているんだから、頑張れ。」というような話に聞こえてしまうんです。正しいのかもしれないけど、全然響かない。そんな違和感を感じていました。

2. なぜ、話そうと思ったのか

では、どうして話す気になったのか。それは、私がお話しすることで、もしかしたらそれを聞いた誰かが、自分を受け入れて自分のことを話してくれるきっかけになるかもしれないと思ったからです。

人間だれしも、生きてればつらいこと、苦しいことはあるのだと思います。たとえ社会的に成功している人であっても、特別な才能を持っている人でも、何不自由なく毎日を暮らしている人であっても、目に見えない暗闇は誰の心にも存在するんだと思います。また、どんなに小さくても価値のある素敵な話は沢山ある。でも、世の中で取り上げられる「いい話」はキラキラしている。苦難を乗り越えて社会的に大成功していたり、ドラマになるような美談であったりしなければ取り上げられない。そして、無意識にそんな大成功と自分を比べて、自分のストーリーに価値はないと思い込んでいる人が大勢いる。自分もそのひとりです。でもそれは、いじめと世界の貧困について、第三者が勝手にどちらが大きいか優劣をつけて論じるくらい、億万長者と普通の家庭の幸せを比べるくらい無意味なことだと思います。

だから、あえて言えば私の話は大した話ではありません。自分のこれまでについて真剣に向き合って、準備して、お話しするつもりですが、大した話ではないです。すぐ元気になるような、学びになるような話を聞きたいなら、YouTubeで鴨さんか奈々さんの講演を聞いた方が間違いなくいいです。

でも、私の大したことない話を聞いて、聞いた人が誰かと自分を比べることなく自分の苦しさを受け入れて、誰かに相談できたらいいなーと思っています。(念のため、話を聞いた誰から私の楽読レッスンを受けに来てくれるといいなーという下心がめちゃくちゃあるのも一応書いておきますww)

最後に、今回の講演会に出場することを勧めてくれた、最近私のことを「相棒」と呼んでくれる楽読大宮スクールの榎本貴子さん、ありがとうございます♪

今日はこんなところで。


楽読のインストラクターやってます♪興味があったらぜひ!


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