見出し画像

プリキュアでもお花屋さんでもなく、私は観音菩薩になりたかった

私が中国の祖母の家で暮らしていた20年程前のお話。

「南無阿弥陀佛~南無阿弥陀佛~#%&$」内容を理解するにはあと3度程転生しなければならないだろう仏教音楽と立ち込めるお香の香り……それが祖母の家だった。

熱心な仏教徒だった祖母。家ではお寺で購入したらしい仏教音楽のカセットテープを常に流していた。毎朝、家の3か所に設置された祭壇にお香を立て、ぶつぶつとお経を唱えるのが日課だ。やっとこさ歩行が安定した歳の私は、それを真似して祖母と一緒に祈りを捧げていたのだった。意味は全く分からなかったが、神聖なものの一部になれたような心地のするその時間が大好きだったのを覚えている。

同年代の子どもがアンパンマンを観ていた頃、私は「観音様の成り立ち」という短編映画を観ていた。これも祖母がお寺で購入したもので、内容は観音様が人間界に生を受けてから観音様になるまでのストーリーだ。観音様の慈悲深さに幼いながらも感動し涙していた。比較的豊かな私の感受性は、この時期に観音様の映画によって培われたのだろう。

幼少期にそんな仏教漬けの日々を送っていた私は、いつしか“観音菩薩になる”ことを夢見るようになっていた。その証拠にこの時期撮られた私の写真は、すべて観音様のポーズをしている。形から入るタイプという点は、今も変わらずだ。いつかとてつもなく美しい音楽を奏でるだろうと信じ、一人暮らしの部屋に、弾けもしないピアノとギターが置いてある。

お祈りとは別にもう一つ私にはルーティンがあった。

それは毎朝、朝ごはんの前にコップ一杯の聖水なるものを飲むこと。観音様に捧げた、ご利益があるとされる聖水。15分前まではペットボトルに入れられたただの水だ。
私はお香の灰が少しばかり混じったその水を一息で飲む。それを飲めば、観音様になれると思っていた。けれども、飲めど飲めど私は私のままだった。

おもちゃを取られれば、力で相手を脅し、取り返す。
“チョコあげる!”と冗談を言ったいとこの手にチョコが握られていなければ、指に噛みつき流血させる。

育てやすかった半面、理不尽や嘘に対しては過剰な凶暴さを見せる子どもだった。そんな凶暴さを持つ私が公園に行けば、楽しそうに遊んでいた子どもたちが一斉に散っていく。慈悲深さとはとても程遠い…。

そんな観音菩薩を目指す自分が変わっていると気づいたのは、日本へ帰国してから。「お花屋さんになりたい!」「プリキュアになりたい!」と可愛いらしい子どもの中に、「観音菩薩になりたい!」が混じっているのはどうも変らしい。

もしも、そのまま自分を貫き通していたら…。もしも、日本へ帰国していなかったら…。もしかすると今頃仏道の道へ進んでいたのかもしれない。それはそれで私はきっといい人生だと思う。メタバースが存在するなら、ここではない世界線の私が毎日世界平和を願いながら、お経を唱えているだろう。ありがとう、違う世界線の私。

“観音菩薩になる”

幼い頃抱いた夢は現実にならないだろう。それでも、ちょろちょろと湧き出る愛と少しでも他者を思いやれる慈悲を身に付けた人間菩薩でありたい。

南無阿弥陀佛〜、時々無性にその分からない仏教音楽を聴きたくなる。

この記事が参加している募集

スキしてみて

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?