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自分のわがままを認めてあげたい

「頑張る、努力する意味はあるのか」

大学3年生の就活時期に、ずっとその問いを考えていた。
結局、私も私の周りの人も、もっと言えば人類や地球でさえも永遠なものなんてなく、滅んでいく運命。虚無に向かっているのなら、自分が頑張ることも無意味なのではないかと。
例えば私が天才かつ努力家で、将来エジソン並みに人類の生活の発展に貢献したとして。その地点と数百年だけで言えば、価値はあるのかもしれない。しかし、長い人類・地球の歴史の中で考えると、それは一体価値があるといえるのだろうか。もし紀元前の古代文明が、現代よりもはるかに高度な技術を持っていたとしたら、結局はすべて滅び私たちにはほとんど何も残していないではないか。

いや、主語がでかすぎるわ!中二病こじらせてるのか!と、思わず突っ込んでしまうほど考えすぎである。笑 物事を複雑化して考えてしまう癖のお陰で、うつや適応障害を引き起こしていることは十分自覚している(泣)


当時大学3年生の私の問いを、今改めて考えてみた。
今の私なら、価値や意味を考えること自体ナンセンスだと考える。少なくとも価値や意味は、未来から過去を振り返ったときに真実が分かるもので、今考えるべきではないと思う。もちろん必要なら価値を見出してもいいと思うが。
ナンセンスだと思うのは、未来のことは誰も分からないからだ。私たちが進んだ先は破滅や苦痛かもしれないし、調和や快楽かもしれない。不透明な未来をこうだと決めつけるのは、あまりにもリスキーで自分を苦しめるよ。
私は今の私がしたいと思うことをすればいい。“私”の人生を楽しでもいい。


私はやっぱり“誰かの助けになりたい”という気持ちが強い人間みたいだ。だから、自分の存在を置き去りにしがちだった。そうしていくうちに、自分の心が苦しんでいることさえも気づけなくなってしまった。主語が大きいのも、自分を大切にできないから。あたかもその大きな主語に自分が含まれているように見せて、実際は自分なんて1㎜も含まれていない。バランスって難しいね。

休職してから、ずっと自分のわがままを聞いてきた。
「焼き肉が食べたい」「何もしたくなーい」「美術館へ行きたい」
自分自身のわがままを聞くようになってから、心が元気になっていっているのを感じる。巷で流行っている自愛ってこういうことなのか、と休職して納得したのだった。

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