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ダミアン・ハースト桜展と、Chim↑Pomハッピースプリング展を訪れて。

ダミアン・ハースト桜展と、
Chim↑Pomハッピースプリング展を訪れて。

●1.
ダミアン・ハーストといえば、動物をホルマリン漬けにして、その身体を真っ二つにして展示する作品の印象が強かった。"Natural History"という作品群である。そんないかにも現代アートの第一人者とも呼べるような作家が、こんな平面的な作品を創るなんて正直想像していなかった。国立新美術館で行われていた《ダミアン・ハースト桜》展の広告を見たとき、その使われているあまりに鮮やかな色合いに同一人物とはとても思えなかった。

●2.
しかも、テーマが「桜」。これを日本で展示するなんて、商業的なニオイがプンプンするじゃないか!と直感してしまい、あまり興味を示さないでいた。しかし、あんまり食わず嫌いも良くないと思い、よりにもよって最終日になってしまったが訪れることにした。
同展では、なんと写真撮影は全て可能。しかも、順路に沿って鑑賞する形式ではなく、四角いスペースが大きく3つほど区切られているだけだった。それゆえ、好きな絵には何度だって戻っていくことが物理的にも心理的にも容易いようになっていた。そんな効果もあってか、鑑賞者は一様にスマホのカメラを向けてシャッターを押している。作品を近づいてじっくり見たいひともいただろうが、あんまり長居すると全体像を写真に収めたい群勢からのやや白い目を感じてしまう。そんな微妙なせめぎ合いがそこかしこで勃発していた。もちろん展示会場はそんな喧々諤々した様子ではないが、少しは居づらさみたいなものを想像するに難くなかったことも事実である。

●3.
最終日に行ってしまった私のせいでもあるが、結局イマイチ鑑賞に集中することもできぬまま、作品をほぼほぼ見飛ばしていた。
作品の描かれ方は、いわゆる点描のような配色を元にしており、遠目から見ると鮮やかなピンクや白が目立つのだが、近づいてみるともっと多様な色のコンポジションなのである。
「〜の桜」のようなタイトルは付いているが、微妙に使われている色が異なる以外は、具体的な理由というよりも作者の印象を元にした題名付けのようには感じた。
なので、どれがどのタイトルかと言われれば結構当てるのは難しいと思う。どれも色の鮮やかは見事であるが、この桜作品群全体でひとつのお花見会場のような、桜並木のような様相を呈することがもしかするとひとつの作品だったのかもしれない。

●4.
写真撮りに必死な観衆を横に、案外早く見終わってしまい、さてどうしたものかと思っていた折、映像コーナーなるものを見つけた。
この展示は、パリでも行われたことがあるらしく、その際に作られたダミアン・ハーストへのインタビューが流れていた。
結論からいえば、これを見ないで終わることが出来なかっただろう。絵でも音楽でもそうなのだが、そのものから入るよりもどうしても背景知識を得ないと対象に心開けない自分がいるのである。
彼の作品制作への意識の変化について言及されており、とても興味深い。彼なりの制作の文脈の中にこの桜たちもあることがわかると、とても見通しがよくなった。変に私が要約したりせず動画をご覧いただきたい。https://www.nact.jp/exhibition_special/2022/damienhirst/

●5.
さて、この動画のなかで
ひとは、断片しか見ていない。
断片の情報から自分が全体を"見ている"と思うのである。
というような言い回しにインスピレーションを受けた。
また、桜の色合いについても、そこにピンクや緑や白だけではないことに気付き、目に見えていると思い込んでいる以外の色がないと、たくさんの色がないと美しいと思わない。ということにも言及している。

●6.
見ているようで見ていると思い込んでいるに過ぎない。
これは、聴覚でも同じようなことが話題にあがる。聞いているようで聞いていると思い込んでいるに過ぎない。と。
あまりに音に溢れている現代において、聴覚を自然に帰すことはできるのだろうか。動物的な知覚という意味での聴覚を我々人間は既に失っているのかもしれないとすら思うことがある。聞いているようで、聞こえていないものは益々多くなっているのではないだろうか。

●7.
はたまたこれが、視覚の場合はどうだろうか。視覚こそ受け取る情報の多さは聴覚以上に多いような気がする。
その意味では、視覚こそもっと自然に帰すことが難しいのではないだろうか。目を凝らして遠くを見ることを欲せず、手元に光るスマホの細かな字を血眼になって見ているのが現状である。考えてもみれば、スマホ画面も元はといえば、光の点の集積である。光の点の集積を眺めて、私たちはそれらを見ていると知覚する。そんな人工的な光の配列に支配された私たちの視覚は、もはや元に戻れないところまで来ているのではないだろうか。私たちの気づいていない、もっと動物的な人間の視覚能力があったのではないだろうか。見えなくなっているものは、多くなっているのではないだろうか。

●8.
この展示会での写真OKの点に話を戻す。スマホで取られた桜たちは、電子データに変換され、整然と配列された光の集積になる。
手元に収まるサイズになってしまった作品群は、ダミアンが言及している作品の没入感、迫力といったものを感じ得ない。その場にいなければわからないサイズ感や配色、絵の具の凹凸。これらが鑑賞者の視覚を通して、また身体を伴って奥行きを感じてはじめて、没入感、圧迫感は生まれるのだろう。
写真をOKにしている割には、その場にいないと体験できない点があるのだと思うと、写真OKは、これを明らかにする逆説的な試みのようにも思えた。

●9.
この展示の後に、森美術館でのChim↑Pomハッピースプリング展に伺った。ことあるごとに展示には訪れていたが、海外での試みなど新しく見ることができたものもあり嬉しかった。
しかし、それ以上に、展示会場との繋がりのなさ、隔たりといったものを感じてしまい、少し不気味さがあった。

●10.
彼らの活動こそ世界各地で、その対象となった土地に実際に赴いて行ってきたものが殆どで、その土地の歴史や政治と切っても切れないはず。回顧展という側面はあるだろうが、その土地との関わりを断って、キレイにパッケージ化されてしまったように感じた。そこに拭いきれない非現実感、他人感を覚えてしまった。優等生化されてしまったというか。

●11.
もちろんこのことを完全に悲観する気はない。この方が多くの方の手に取られやすいことは明白で、事実入場制限が生まれるほどの混雑が平日にも関わらずできていた。これを喜ばしいとすることは正しい。しかし、それと同時にどこかエンターテインメントのひとつに還元され、その奥にある真相よりも、より表面的なメッセージに留まってしまうような気がした。ここにもまた見た気にさせてしまう力学が働いているのではないだろうか。

●12.
この展示もまた、写真撮影はほぼ可能であった。ダミアン展でも言及したが、スマホに収められたサイズ感やビビッドな色合い、少し不思議なオブジェたちは、実際の場を離されることによって、見えていると思い込ますための情報の断片のひとつになる。電気信号状の情報は断片に過ぎず、それを目にすることで人はやはり、自分が全体を"見ている"と思うのである。スマホ撮影は、作品そのものを情報の断片化を招くのかもしれない。

●13.
とはいえ、写真芸術をどう扱うかということもここに関わってくるため、安易なことは言えないだろう。しかし、写真であれ、絵画であれ、人間の視覚をどう扱うかそこが問われ続けている。
どちらの展示も、作品そのものと密接に関係した身体を伴う関係性(大きさ、場所、空間etc.)を蔑ろにしてしまってはあまりにもったいないのではないだろうか。いや、作品とはそもそも作品だけで独立していず、それを取り巻く環境、そして、それを取り巻く人の視覚能力に依存していることを忘れてはならないはずである。

●14.
少しまとまらない話になってしまったが、要するに我々の知覚は非常にあやふやなものなのではないだろうか。見ている、聞いているとは、全てそう思い込んでいるに過ぎないのかもしれないのだ。と。


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