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ボランティア活動のために:非営利的な活動と営利的なものを結びつける

わたしは、今住んでいる市内で子どもたちの学習支援兼居場所づくりの活動をしております。
3年前にはじめ、現在は4名ほどのボランティアさんと一緒に運営を行っていて、主に助成金などを活用しながら必要経費を賄っています。
とは言っても、稼働しているメンバーもわたしにもこの活動からの収入はなく、ボランティアとして活動しています。

わたしは学生時代から、地域コミュニティやボランティアについて学ぶ機会が多く、それと同時にそういったものに関する実践を行ってきた経験もあります。
もっと前に遡れば、小学生の頃からボランティア活動に漠然と関心があり、「将来はボランティア活動をして暮らしたい」「青年海外協力隊になりたい」と思っていました。
なぜボランティアに関心があったのかと言うと、もともと好奇心が強めで、他者と関わることを億劫と感じるタイプではなかったこと・「人を助ける」ことにプラスなイメージを持っていたこと・人から「ありがとう」と喜ばれることが好きだったこと・自分より小さな子たちの面倒を見ることが好きだったこと…などがあると思います。

そんなわたしですが、学生時代には一時期、「ボランティアって本当に良いものなのだろうか」とボランティアに懐疑的な時期がありました。
詳しくは省きますが、大まかに言うと、「ボランティア=良いこと」というイメージが先行していた雰囲気に違和感があったのが最初だったと思います。
ボランティアをする中で、ボランティアを受け入れる側の人たちが助けられる側である、ということは決してなく、むしろボランティアをしているわたしたちの方がさまざまな面で助けてもらったり、学ばせてもらったりしていたからです。
でも、そこにもまた自分的には引っかかるところがあって、ボランティアを受け入れているということは、そこにそれだけ喫緊の課題があるのに、「こちら側が学ばせてもらっているって何だ?」と。つまり、「わたしが今ここでするべきなのはボランティアという行為であるはず。学んでいる場合ではないのでは?!」という疑問。

そのあたりの当時の疑問には今回はそこまで深堀りしませんが、とにかくわたしは「ボランティア」というものと縁がある人生を送っているなあと思っています。

ボランティアであり続けることの限界

とは言いつつも、数年間自分が立ち上げたボランティア団体の活動を通して、やはり現実的に向き合っていかなくてはいけない問題があります。
それが、「ボランティアの限界」です。

ボランティア活動とは、社会の課題を解決するために自発的に行われるものだとわたしは定義しています。
ただ、やり始めたときと数年経った今を比べると、見えている世界が変わっているのです。

たとえば、わたしは「子どもたちに地域の人と関わるきっかけをつくる」という理念のもと、学習支援ボランティアとして当初は活動を始めました。
というのも、今までの自分の地域活動&ボランティア経験から、「子どもに勉強を教える」という方法が自分にとって苦なくできるものであり、「勉強」という共通の課題がわたしと子どもたちを繋げてくれたと感じていたからです。そこで子どもたちとわたしが繋がったことにより、子どもたちがより地域の中に出やすくなり、子どもたちが地域の中でなにか挑戦したり、今までとは違った価値観で自分の地域の人たちのことを知っていく機会になっていて、その経験を提供できることがわたしにとっても喜びでありました。

ただ、改めて自分がゼロからボランティアを始めてみると、「本当に大切なのは学習支援なのか?」という疑問が生まれました。
学校から出された宿題をイヤイヤやる子どもたちに、「勉強しよう」と声をかけることが本当に自分のやりたい支援なのだろうか、とボランティア活動をする中で感じることが増えていきました。
もちろん、ある一定の学力が必要なのは承知ですが、子どもたちの貴重な時間を、イヤイヤやる宿題の時間にするのはなにか違う気がする…ということです。

このように、「学習支援は必要です!格差が広がる社会の中、誰もが平等に学習を教えてもらえる機会は保障されるべきです」という誰もが知っている認識から始めると、現実にはもっと違う問題があることに気が付きます。
そうなると、次は「子どもたちが放課後にやりたいことって何だろう?」「勉強が楽しくないと感じている子どもたちが多いのはなぜだろう?」という問いから、わたしの団体の場合は、「安心できる空間の中、子どもたちが自由に好きなことをして過ごせる居場所づくりを趣旨として活動しよう」とちょっとした方向転換をしました。

このように、小さなボランティア活動だからこそ、現実を照らし合わせ迅速に対応することができる一方で、
活動を進めて現実を知っていく中でどんどん別の課題が見えてくると、それに対する解決策も変わります。
そうなると次に必要なのが、「仲間」なのです。

仲間の存在が、持続可能性を見つめるきっかけをくれた

たとえばわたしの団体の場合だと、
学習支援だけなら、身ひとつでどこでも出来ます。子どもたちに教材を持ってきてもらって、わたしがサポート出来ればいいだけ。
でも、「子どもたちが自由に好きなことをして過ごせる居場所づくり」になると、そうはいきません。
環境整備が必要になります。そこに置く教材や画材、外遊びできる環境、などなど…そして最も大切なのが、「子どもたちを見守る人」の存在です。

「自由」を求めている子は多い。
そしてそれを保障できる場所でありたい。
だけど、そのためにはある程度の人数のスタッフが必要不可欠なのです。
なぜならみんながいろんなことをしているので、その分様々な対応が必要になり、怪我などの危険を予知して動く必要がある場面も多くなるからです。
そういうときに、「見ていなかった」はいちばん危険だからです。

わたしの場合は、ありがたいことに賛同してくれる市民の方々に支えられ、ボランティアさんが4人定期的に活動に参加してくれるようになりました。
ただ、このように複数の方々がボランティアとして活動に参加してくれるようになると、次は「どうしたらみんなが健全な状態でこの活動を続けられるだろうか」という、活動の持続可能性を考えるようになりました。

みなさんボランティアなので、もちろん自分で判断して自分の意志で来てくださっているのですが、
「ボランティア」なのでわたしもどこまでこちらのお願いをしていいのか迷うことがあったり、どうしても優先度的にはみなさんの本業の仕事には勝てないので(当たり前の話ですが)余力がないとドロップアウトになりやすかったり…
やはり、なにかしら持続可能性を持った活動にしなければいけないと感じています。ボランティアで各自の意志に委ねているだけではいけないな、と。
もうわたしひとりだけの活動ではなく、ボランティアさん含め、社協や行政、他のボランティア団体の方々、保護者の方々、子どもたちが関わっている限り、持続可能なモデルを生み出さなければいけないフェーズにいると思っています。

非営利×営利のコラボが必要

子どもたちに関する課題は、行政の中だと「福祉」「教育」分野に分類されるのですが、それだと限界を迎えやすいと、とある放課後支援のNPOの代表の方に言われたことがあり、とても印象に残っています。

子どもたちがどう育つかは、この国にとって重要な課題であり、なぜなら子どもたちがどれだけ今の時代を生き抜く術を持っているかによって、
国の経済が左右される。
そういう視点で見ると、子どもたちに対する支援は、「経済」領域にも関わってくるのだとおっしゃっていました。

たしかにその通りだ、と思うと同時に、やはり発想の転換がいろいろ必要なんだということも感じています。

同じように、「居場所づくり」「学習支援」を、非営利の形でしか続けられないのでは、いつか限界は迎えるだろうと。
持続出来ない、ということがなによりも子どもたちにとって残念な結果になる。
ということで、ここ数ヶ月はずっと、非営利的な活動×営利的な活動のコラボによって成り立たせられるモデルを、模索し続けています。
大げさかもしれないけれど、そのような在り方を示せたら、今後ボランティアとして活動している方々の参考になれるかもしれない、と。
そんなところまでいけるといいなあと思って、探究している毎日です。

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